カッカと石と靴の踵がぶつかる音が聞こえてくる。
「あれ? もうバイトの時間だっけ? いつもより少し早いじゃない」
「うーん、今日はいつもより早く出るとバイト代が少しだけ増えるんだ。 なんか店長が定期的にそういう訳のわかんないバイト限定イベントするんだよね。 まぁ、そのおかげで一種の臨時ボーナスを得られるわけだから僕は嬉しい限りだけどさ」
「なるほどねー。 まぁ、頑張ってきなさいよ。 あ、それと昼は?」
「あぁ、昼休憩に帰ってくるから待ってて」
「はいはい」
靴ひもを結び直し、体全体をほぐす青年。
これから洋菓子店へとバイトに向かう青年は、烏天狗である姫海棠はたてに振り返り手を振って玄関を後にする。
はたてはねこ(命名、みかん)を抱きながらあいた右手で青年に振りかえす。 これも、なんともなしに決まった二人の習慣だ。 別段意味はないのだが、青年的にはこれで元気が出るらしい。
青年を見送ったはたてはねこを抱きながら、そのまま室内に引き返そうと踵を返す──返そうとしようとした矢先、ねこがはたての腕の中からぴょんと抜けだした。 とてっ、と玄関に着陸したねこはそのまま器用に手を動かし、玄関の戸を開ける。
「にゃー!」
「ダメよ、外は危険がいっぱいなのよ」
玄関の戸を開け、外に出たねこははたてに 「一緒にお散歩しようよ!」 と呼びかけるが、はたては首を横に振って拒否の構えを取った。
「にゃっ? にゃっ?」
ねこははたてのほうに擦り寄り、可愛い顔を左右に振る。 「なんで? なんで?」 とはたてに問いかけているようだ。
「いい、みかん? 私は外に出ると溶けてしまうのよ。 見たくないでしょ? 私が溶けるところなんて」
「にゃー……」
真面目な顔でねこに語りかけるはたて。 ねこは「そんなバカな……」とでも言いたげな声で鳴き声を上げる。 しかしながら、はたてにはそれが諦めの声に聞こえたらしく、一人頷いて室内へと消えていこうとする。
「にゃー! にゃー! にゃっ、にゃにゃ!」
「もー、なによ。 そんなに興奮して……いったいどうしたの?」
なおも声を上げるねこに、はたても室内行きを諦めてしゃがみこむ。 ねこ視点からは、はたての短いスカートから見える下着が目の前にある形だ。
ねこはそんなはたての下着には目もくれず、身振り手振りでなにかを伝えようとする。
「にゃにゃにゃ! にゃー……、にゃにゃ! にゃー!」
「ふんふん」
「にゃっ! にゃー……、にゃー……、にゃー……。 にゃにゃにゃにゃ!!」
「ほおほお」
はたてはねこの声に一々相槌を打ちながら頷く。 やがてすべてを鳴き声に込めたねこは満足したのか、ほっと一息つき……期待の籠った眼差しではたてを見つめた。
ねこの期待の籠った視線を受けてはたては──
「ごっめーん、何言ってるのさっぱりわからなかったわ!」
両手を目の前で合わせて、ヒマワリのような笑顔で言い切った。
「にゃっ!?」
当たり前といっては当たり前なのだが、あまりにもあまりなはたての言動に、先ほどまで一生懸命伝えようとしていたねこはついに泣き出してしまう。
「え!? ご、ごめん! え、えーっと、えーっと……」
これにははたても驚き、慌て、ねこを抱き上げ揺り籠のように揺らしながら必死に話しかける。 が、ねこの涙は止まることがなく、いよいよもってはたてのほうも目に涙を溜め始めた刹那──
「わ、わかったわよ! 外へ行けばいいんでしょ!? 外に行けば!」
どうにでもなれ! そう言わんばかりに大声を上げるはたて。 そのセリフを聞いた瞬間、ねこはピタリと泣き止んだ。
「にゃーん! にゃにゃーん!」
「……みかん、あんた謀ったわね……」
「にゃ?」
涙の後さえ見えぬねこに、はたては恨みがましい目線を送った。
一度言った言葉を引っ込めるのは、姫海棠はたてにとって簡単なことではあるのだが、そうすると今度はねこであるみかんが本気で泣くことになるので、自分が降参したほうがいいだろう。 そう思い、はたては外に出るための身支度をした。 といっても、麦わら帽子を被っただけなのだが。
玄関の戸を開け、一歩踏み出すはたて。
「あっつ……。 もう帰りましょ、外に出たことには変わりないし」
「にゃっ!?」
そして玄関の戸を閉め、そのまま室内に置いてある雑誌に向かって足を進めようとするはたて。
それを必死に止めるねこ。
「あー、はいはい。 冗談よ、冗談。 まったく……行けばいいんでしょ、行けば」
ねこに止められ、再び玄関の戸を開け外へと踏み出す。 燦々と照りつける太陽、じめじめとした空気、熱したように熱そうな道、そしてそんな太陽や空気にも負けずに外を歩く人里の住民。 それらを前にしてはたては、
「……人里って、意外と人がいるものなのね。 普段あいつしか見てないから、“人里”という場所はあいつが作り上げた幻想の世界だと思ってたわ」
とても失礼なことを言った。
「にゃ?」
「え? あぁ、ごめん。 それじゃ……お隣さんのところまで歩きましょうか」
「にゃー!」
青年の家からお隣さんまで、歩いて1分ほどで着くのだが──それでも、はたてとねこには十分な距離のようだ。
いや、ねこにしてみればはたてが外に出てくれた、という事実だけで嬉しいのだろう。
それを証明するかのように、はたての隣に付き添って嬉しそうに声を上げながらついていく。 はたてが何度か抱き上げようとするも、それをやんわりと断るあたり、本人は散歩が好きなのだろうか。
「よーし! お隣さんまで歩いたわ。 今日はこれで終了ね」
青年の家からお隣さんまでは歩いて1分ほどの場所にあるのだ。 数歩足を出すだけで終了する。 はたては見事お隣さんまで歩き終ると、そのまま家に帰るためくるりとUターンする。 それを見逃すはずのないねこ。 瞬時にはたての前に回り込んで、つぶらな瞳ではたてを見る。
「ぐっ……!? もう騙されないわよ……!」
麦わら帽子を目深に被り、ねこが視界に入らないように歩こうとするはたて。 だが、ねこにははたての作戦などお見通しのようで、 「にゃーん……、にゃーん……」 と、か細い声を出してはたての良心に訴えるような鳴き声を発する。
視界がダメなら聴覚を利用しようということだ。 耳を押さえてしまったら、視界にねこの姿が、視界を防いでいたら耳にねこの鳴き声が。 どうやら、はたてに逃げ場はないようだ。
「わ、わかったわよ! もうちょっとだけね! もうちょっとだけ!」
はたてがねこに根負けして、そう叫んだ瞬間──お隣さん、つまりはたてが現在いる場所の玄関が開き、中から家主たちが顔を覗かせたのだ。
「おやおや、ねこさんと言い合っていたのはこんな可愛らしい女の子だったとはねぇ」
「ほっほ、そこのお嬢ちゃん、あんまりねこさんと喧嘩はダメじゃぞ」
はたてに声をかけてきたのは、御年65歳くらいの老夫婦であった。 ともに白髪で柔和な顔をしており、はたてに対して孫に会ったかのような笑顔を向けていた。
「……あ、はい」
思わずはたては頷いてしまった。 柔らかい物腰の老夫婦の言葉に、何倍も生きてきた姫海棠はたては素直に頷いてしまった。
「あっ!? こ、こらそっち行っちゃダメよ!」
シュタタッと老夫婦が開けた玄関に向かってねこはダッシュする。 ねこに向かって静止の言葉を投げかけるはたてだが、ねこはその声に耳を貸さず老夫婦とはたてが見つめる中、猛ダッシュで家の中へと入っていった。
無言で玄関を見つめるはたて。 そんなはたてに、老夫婦は優しく声をかけた。
「お茶でもどうかのう?」
はたてはぎこちなく頷いた。
☆
「ほ〜、ほたてちゃんねぇ。 随分と可愛らしいお名前だことで」
「はたてです! は た て !」
「あられでも食べるかい? ほたてちゃん」
「だから、はたてだってば!」
家に招かれることになったはたては、座布団の上に正座でお婆ちゃんと話をしていた。 といっても、先程からこのお婆ちゃん、はたての名前を間違えてばかりで一向に話が進まない。
そればかりか、勝手に話が終わらせ席を立つと台所にあられを取りに行く始末。 なんとも自由奔放というか、雲のようなお婆ちゃんである。
「まったく……、みかんダメじゃない。 勝手に人の家に上り込んで」
青年の家に勝手に上り込んだ挙句、そのまま住んでいる烏天狗はそう注意する。 この場に青年が居たら、絶対に白い目を向けられるだろう。
ねこは、「にゃーん」と鳴き声を上げはたてに擦り寄る。 はたては肩をすくめてねこを抱き上げた。 どうにも、ねこにはしっかり怒ることができないはたてである。 青年には容赦の欠片もないのだが。
「ほっほ、可愛いねこさんだのう。 ほ、はたんちゃん?」
「おしいですが、私の名前ははたてです。 ほたてでも、はたんでもありません。 は た て です」
「ほっほ、すまんのう。 物覚えが悪くなってしもうて……」
「あ、いえ……。 べつにそこまで怒ってるわけでは──」
「それではたんちゃん」
「はたてです」
瞬時に訂正するはたて。 何回も続くこのやり取りに、流石にうんざり気味である。 そんなはたての前にあられがことんと置かれる。
「ほたてちゃん、あられどうぞ」
「あ、どうも。 えっと……いただきます」
「ねこちゃんもどうぞ」
「にゃー!」
はたてはあられを一つ摘み、口に放り込む。 噛んだ瞬間、塗された砂糖が口いっぱいに広がり腔内に甘さが浸透していく。 ガリガリと音と食感を同時に楽しむことができ、はたてはついつい二つ目を摘み口に入れた。 一つ、二つ、三つ、食べれば食べるだけ口は砂糖の甘さと、あられのカリカリとした食感で満たされていく。
「にゃー!」
「へ? あ、ごめんごめん。 はい、みかん。 咽喉に詰まると大変だから、少し割ってからね」
パキンとあられを真っ二つに割り、自分の手のひらに乗せねこに近づける。 ねこはふんふんと匂いを嗅いだ後、ぱくりとあられを食べる。 もぐもぐもぐ、と口を動かした後、
「にゃー、にゃー」
と、はたてに擦り寄りもう一度食べたいとおねだりしてきた。 はたては苦笑しながらも、残っていた半分も食べさせた。
「おいしい?」
「にゃー!」
「よしよし。 けど、確かにおいしいわね。 あいつも作ってくれないかしら」
きっとお金がないから無理かもしれないけど。 自分の家の経済状況を再確認するはたてである。 青年ことだから、はたてがお願いすればどうにかしそうな気もするが。
はたての言葉にお婆ちゃんは優しく微笑みながら答えた。
「あの子のことだから、きっと作ってくれるはずさ。 けど、お金がないって嘆いていたからどうだろねぇ〜……」
「あれ? あいつのこと知ってるんですか?」
「休憩時間の最中なんかによく来てくれてねぇ。 ほんと、人懐っこいから孫みたいで」
あられを食べるねこを撫でながら、はたては青年の姿を思い浮かべる。
人懐っこい……というより、能天気のバカっぽい……。 そうはたては思ってしまうのであった。 くるるる、とはたてのお腹が鳴る。 慌ててお腹を押さえるはたて。 チラリと顔を赤くしながらお婆ちゃんとお爺ちゃんのほうを見ると、ニコニコとした顔ではたてのことを見ていた。
「ほっほ、ばあさんや。 もうお昼じゃし、昼食を食べようかのう」
「あ、それじゃ私は──」
「ええ、じいさんや。 三人分、作ってきますね」
腰を浮かせたはたてだが、老夫婦の言葉を聞いてそのまま固まる。
「えっと……」
「ほたてちゃん、お昼食べていきなさい。 ほたてちゃんみたいな可愛い女の子と食べれる機会なんてないのだから、年寄りの頼みだと思って」
「は、はぁ……」
妖怪の私のほうが、あなた達より何倍も年寄りだと思うけど。 そう思いながら、はたてはとりあえず浮かせていた腰を下ろした。 そこにシュタタッと駆け、綺麗に正座したはたての膝にちょこんと座るねこ。 はたてもねこの抱き方に慣れたもので、赤ちゃんをだっこするようにねこを抱く。
ねこは嬉しそうに鼻を鳴らした後、腕の中でごろごろと寝返りを打つ。 そのたびに、はたてはちょっとおろおろしながらねこが落ちないように気を使う。
「ほたてちゃん、ねこがよく似合ってるよ」
「どうも。 あと、何度でもいいますが、私の名前は姫海棠はたてです。 は た て です!」
「ほっほ、ほたてちゃん、あまり怒ると可愛い顔が台無しじゃぞ」
「人間って……耳が遠い生き物なのね」
諦めたように遠くを見つめるはたて。
そこに、お婆ちゃんがおぼんを持ってやってきた。
「はい、はたんちゃん。 ねこちゃんにはこっち」
はたての前に置かれたのは、キラキラと光る白米、わさび醤油が食欲をそそる冷奴、身がぎっしりと詰まった焼き魚に、小松菜のおひたし、そして豚汁である。 ねこには焼き魚の切り身を食べやすいようにカットしていた。
はたてはその料理に目を輝かせる。
「うわーー! どれもおいしそう!」
「召し上がれ、はたんちゃん」
「いただきまーす!」
両手を合わせて合掌し、勢いを殺すことなく焼き魚にありつく。 シャクと焼き魚を噛むはたて──その顔はすぐに笑顔へと変わっていた。 それを見て、老夫婦は嬉しそうに二人頷く。 「おいしいわねー」 「にゃーん!」 そんな会話を耳にしながら、二人も自分の食事にありついた。
ぱくぱく、むしゃむしゃ、見てるこちらが嬉しくなるような食べっぷりを見せるはたてにお婆ちゃんが話しかける。
「はたてちゃんは、いつも一人なのかい?」
「へ? まぁ基本は一人ですね。 夜と朝はあいつがいるからそうでもないかもしれないけど」
「それじゃぁ、お昼は一人で食べてるのかい?」
「まあ」
「一人で寂しくないかい?」
「雑誌とか読んで過ごしてますし。 ゲームとかしてれば時間は経ちますし」
いったい、なんでこんなことを聞いてくるんだ? はたては首をかしげる。
それを見越したかのように老夫婦ははたてに提案する。 その提案は青年にとっても嬉しいことであり、はたてにとっても得する提案であった。
☆
夕暮れ時、はたてはねこを抱きながら、老夫婦に見送られながら家を出る。 手にはお土産のあられをしっかりと持っていた。 といっても、お隣から徒歩で1分なのですぐに家の前に着くのだが。
玄関の戸を開き家に入ると、ばたばたと室内から青年の足音と声が聞こえてきた。
「ほたん!? ヒッキーのほたん! ニートのほたん! 一人でどこに行ってたの!? もしかして家で迷子になったの!?」
「とりあえず落ち着きなさい。 もう別人になってるわよ。 それに、流石の私も家で迷子になったりはしないわよ」
冷や汗を掻きながら、はたての名を呼び駆け寄ってくる青年。
はたてはやれやれ、とでも言いたげに頭を振った後、手に持っていたあられを青年の胸にどんと置く。 疲れたような声を発しながら、室内へと入るはたて。
そんなはたてを、青年はただただ唖然とした顔で見送るばかりだ。
青年のズボンを何者かがひっかく。 首を下に向け確認すると、ペットであるねこが嬉しそうな鳴き声を上げていた。 それを見て、何か悟った青年はねこを抱き上げ、頭を撫でながらお礼を言う。
「ありがとう、みかん。 どうやら少しだけ、はたての移動距離が増えたみたいだね」
奥からは、はたてが青年を呼ぶ声が聞こえてくる。 青年はそれに苦笑しながらも、嬉しそうに答えるのであった。