51.終わりの始まり



 夢現の意識の中で、懐かしく、温かい手が頬を撫でる。 鼻腔をくすぐる甘い香りと、安心できる膝の感触。 まるでそよ風が自分を包み込んでくれているような──そんな感覚を覚え俺は自然と自分の頬を撫でる手を掴んだ。

「きゃっ!? か、彼方ちゃん!?」

 彼方ちゃん……? 俺のことをそう呼ぶ人なんて一人しかいない。 だとしたらこの手は──

「さ、早苗ちゃん……?」

「は、はい。 えっと……気分はどうですか?」

 照れたように笑みを浮かべながら幼馴染である早苗ちゃんはそう聞いてきた。 そこでようやく自分の頭が回転しはじめる。 神奈子さんと弾幕勝負をして俺は負けたんだ。 完膚なきまでに誰がどう見てもわかる──完全なる敗北を喫したんだ。

「そっか……。 俺、負けちゃったんだよな……」

 自然と一人でに呟いていた。

「彼方ちゃん。 彼方ちゃんは試合には負けましたが、勝負には勝ちましたよ?」

「ははっ、早苗ちゃん俺に気を遣わなくてもいいよ。 自分自身が一番よくわかってるからさ。 意識が途切れる瞬間を」

 ついつい自嘲気味になってしまう。 早苗ちゃんは俺を元気づけるためにこんなことを言ってくれているのに。

 ペチンっ

 早苗ちゃんが俺のおでこを可愛らしく叩いてくる。 むっとした表情を見せる早苗ちゃん。

「むーっ! 彼方ちゃんは私のいうことを信じてくれないんですね? 彼方ちゃん変わりましたね。 彼方ちゃんだけは私の言っていること信じてくれていると思っていたのに。 そんなことまで先ほどの戦いで曲げてしまったんですね」

「さ、早苗ちゃん……?」

「いいですよ。 どうせ私なんて彼方ちゃんと神奈子様の間であわあわしていただけですので。 それに彼方ちゃんには私の他に沢山の“女の子”がいますからねー。 あの紅白の巫女さんとかブレザー姿のウサ耳の女の子とか心配してましたし。 あーあ、私は悲しいです。 彼方ちゃんのそばにいられなくて、でも手紙で書きましたものね。 私は風となって彼方ちゃんのことを見守っていると。 それに彼方ちゃんはモテモテですからねー。 小さいときは私とばっかり手を繋いでいたというのに。 毎日毎日、私の神社で遊んでいましたねー。 懐かしいです。 中学生になり思春期まっただ中の時でも 『えっと……早苗ちゃんは俺と話してくれるよね? ほ、ほら……なんか最近早苗ちゃん冷たいというかなんというか……』 とか子犬のような瞳で私に縋っていたものです。 まぁ、アレはちょっとした検証でしたし、結果が満足のいくものでしたからすぐに止めましたけど。 はぁ……なんだか彼方ちゃんが遠くに行った気がします……。 ──さびしいです」

 涙を拭う素振りを見せながら、早苗は流し目で彼方を見た。 彼方は周りをきょどりながら確認した後、早苗に向かって、

「ご、ごめんなさい……」

 そう謝り頭を下げた。

「はい。 よくできました」

 早苗は彼方の頭を撫でながら笑顔でいった。

 しばし向かい合って、笑う二人。 と、そこに後ろから何者かの気配を感じた。

「ちょっと邪魔よ、庭掃除」

「げふっ!?」

 彼方の脇腹に霊夢が蹴りこんできた。 脇腹を抑え込みながら霊夢に視線を上げると──

「あら、流石にこれで意識を失うほどへぼい鍛え方はしてなかったのね。 あんたよく気を失ったりするからどんなもんかと思ってたんだけど」

「……そりゃどうも。 紅白の巫女さんが蹴る寸前に周りにはわからないように力を押さえてくれたおかげで大丈夫でしたよ」

 視線を上げた先にいたのは、博麗神社の紅白巫女こと博麗霊夢であった。 両手にお茶をかかえての登場である。

 霊夢は彼方にお茶を渡し、自分の分のお茶を飲みながら横に座る。

「お疲れ様、彼方。 具合はどう?」

「うーん……、体の節々は痛いけどそれはいつものことだし、大丈夫かな?」

 頬を掻きながら笑う彼方に、霊夢はずいと身を乗り出しながら詰問する。

「本当になにも異常はないのね?」

「ほ、ほんとうだよ霊夢!? ほんとに何もないってば!」

「…………まぁ、あんたがそういうならそういうことにしてあげるわ」

 彼方にそっぽを向く霊夢。 だが、それも一瞬──がばりと振り返った霊夢は泣きそうな顔をしながら、体当たり気味に彼方に抱きついた。

「ばかっ……! 心配させないでよ……! 死んだかと思ったんだから……!」

 涙を浮かべながら上目使いで彼方を見る霊夢。 彼方はそんな霊夢を見て、顔を赤くなるのを自覚した。

「ご、ごめん……霊夢。 で、でもほら、ちゃんと生きてたし。 それに……霊夢の可愛い顔見れたからいいかなー、なんて思ったり」

「う、うるさいわねっ! アンタは一週間庭掃除しかさせてあげないわよ!」

 睨む霊夢を見ながら、困ったように笑う彼方。 と、そんな二人の間に早苗が割って入ってきた。

「えっと、霊夢さん……でしたよね? 私の彼方ちゃんがお世話になりました。 幻想郷での衣食住の面倒を見てくださったようですし……」

「……私の?」

 とあるワードに耳をヒクヒク、頬をピクピクさせる霊夢。 早苗は霊夢の表情など見ていないとばかりに話始める。

「はい、彼方ちゃんから話も聞いていましたし、私のほうから挨拶しないといけないな〜、と思っていたところなんです。 彼方ちゃんもちゃんとお礼言いましたか? こういうのはキチンとしておかないと後々揉め事の種になりますからね?」

 彼方に振り向きながらお姉さんのように指を突き付ける早苗。 彼方は黙って頷いた。 それを見て早苗は満足したのか、霊夢の手から彼方に渡ったグラスを取り一気に呷る。 コクコクと咽喉を鳴らして飲み干す早苗に、霊夢は震える指を突き付ける。

「そ、それ……彼方に渡したはずなんだけど……!」

「あっ! ごめんなさい!? い、いつもこういった飲み方をしてますのでつい……!」

「へ、へ〜……。 いつも一つのコップを二人でね〜……。 ──彼方、あんたいい度胸してるじゃない」

「えぇっ!? なんで俺に振るの!?」

 ドスの利いた声で彼方を睨む霊夢。 顔は下を向いており表情はわからないものの、その深淵から覗く猛獣を思わせる瞳の輝きで彼方は身の危険を感じた。 座ったままの状態で一歩後ずさる彼方。

「か、彼方ちゃん……。 霊夢さんって怖い人なんですか……? 私、寒気が止まりません……」

「い、いや……普段は優しくて頼りになる人で──」

「きっと私がいない間、彼方ちゃんはこの人に奴隷のような扱いを受けていたんですね。 あぁ……、ごめんなさい彼方ちゃん。 私がもっと早く彼方ちゃんのそばにいてあげることが出来れば、彼方ちゃんは酷い仕打ちを受けなくても……」

 早苗は八坂神奈子との戦いで負傷した傷を指でなぞりながら愛おしそうに宣言する。

「大丈夫です。 これから先は私がずっと守りますから……」

 どうやら早苗は変な方向にスイッチが入ってしまったようだ。

 彼方の手を両手でギュっと握りしめ、瞳に涙を溜めながら彼方を見つめる早苗。

「彼方ちゃん……、これからは私がずっとそばについています。 安心してください」

 そう宣言した早苗は、そのまま両手を自身の一般女性より少々大きい胸へと宛がう。

「なに顔赤くしてんのよ、変態」

「ち、違うっ! こ、これは……えっと……その……、負傷した傷が疼くんだ! そ、そう! 傷のせいだよ!」

 早苗の胸に手を埋めたまま、必死に怪我のせいだと主張する彼方に霊夢は白い目を向ける。

 ざ、彼方は自分の背後に誰かが立つ音を聞いて後ろを振り向く。 そこには──

「おかしいわね〜、お師匠さまの処置は完璧のはずよー? ほんと、どこぞの変態の弁明のためにお師匠さまの処置のことを悪く言われるのは腹立つわねー」

「……や、やぁ鈴仙」

 白いウサ耳に紺色のブレザー、赤いルビーの瞳が特徴的な女の子、鈴仙・優曇華院・因幡の姿がそこにはあった。

 彼方が何かを言う前に鈴仙はスッと腰を落とし、彼方の体を触っていく。 いわゆる触診だ。

 体の隅々まで調べ上げた鈴仙は、

「体に異常はないわね。 気分はどう?」

「いや、大丈夫だよ。 ありがとう、鈴仙」

「……べつにあんたの為じゃないわよ。 お師匠さまからの命令で仕方なくよ、仕方なく」

 そっぽを向きながら素っ気なく答える鈴仙。 ウサ耳がぴょこぴょこと動いているのが愛嬌を感じさせる。 彼方は思わず鈴仙の師匠、八意永琳を探す。 視線を色々な所に巡らせているうちにバッチリと目が合ったので、ひとまず頭を下げておくことに。 機を見て再度お礼に行こう、そう決める彼方であった。

 彼方は鈴仙に聞く。

「そういえばさ、──あのお祭り騒ぎはなんなの?」

 指を突き付けた先には、八坂神奈子と八雲紫が酒の一気飲み勝負をしているところだった。

 そしてそれを煽るように周りの天狗たちは囃し立てる。 少し離れた位置に座っている彼方たちにすら鮮明に聞こえてくる声である。 鈴仙はため息を吐きながら説明をしてくれた。

 どうやら、八坂神奈子と不知火彼方の勝負の後、八坂神奈子は負けを認め刃を収めたという。 そこに幻想郷の管理者である八雲紫が守屋神社にやってきてある提案を提出し、それを神奈子が了承。 そしてなし崩し的に宴会へと移っていったようだ。

「それじゃぁ……俺は本当に勝ったんだ……」

 自分の手のひらを見つめながら声を漏らす彼方。 それを横から嬉しそうに見る早苗。

「まぁ、お情けだけどね」

「うぐっ!?」

「霊夢さんっ!」

 何故か二人を面白くなさそうに見つめながら霊夢はポツリと呟いた。 ちょっとだけ意地悪になっている霊夢であるが、なにがそんなに気に入らないのだろうか。

 落ち込み始めた彼方に早苗が一生懸命言葉をかける、そんなやり取りを面倒そうに見つめながら鈴仙は遥か後ろでこちらを先ほどから見つめる人物を指さしながら彼方に問う。

「そういえば、あんたに会いたいって人物がそこで待ってるけど──あんな怖い人とどうやって話したわけ?」

「……え?」

 彼方は顔を上げ、鈴仙の指を視線で辿ると──無意識に霊夢に抱きついた。 抱きついていた。 全身から血の気が引き、一瞬にして顔から余裕がなくなる。 慌て何かを口走っていた霊夢であるが、彼方の顔を見て不思議に思い視線を辿る。 そして一人の女性にぶつかり──臨戦態勢に入った。 そんな二人を見て、女性──風見幽香はニンマリと笑った。 コツコツカツカツと踏み鳴らしながら彼方へと近づく幽香、手には花柄模様の日傘を持っている。 彼方から1m手前に立つと彼方を見下ろしながら上品に一礼した。

「ご機嫌よう。 太陽さん?」

「は、ははっ……。 そ、そうですね……」

 ジリジリと後ずさる彼方。 幽香は後ずさるたびに距離を詰めていく。

 彼方の体が覚えている。 自分の腹を貫いたこの女性を。

 彼方の脳裏に浮かびあがる。 自分を見下ろし嗤うこの女性を。

 フラッシュバックされる記憶、鮮明に浮かび上がる記憶映像。

 彼方は思わず口元を押さえる。 せめて吐かないように気持ちを落ち着かせる。

「あら、大丈夫かしら? なにやら随分と楽しそうな弾幕戦をしたらしいのね。 まだ休んでたほうがいいと思うわよ? ──あら、私の顔にお札を貼るのをやめてほしいわね」

 その距離、わずか10cm。 その10cmすらも、彼方と幽香の間に霊夢がとっさにお札を挟まなかったらどうなっていたことか。

 彼方は荒い呼吸を刻みながら幽香に問う。

「なんで……あのとき、あんなことをしたんですか……? 俺に恨みでもあったんですか……?」

 睨みつけながら問う彼方に、幽香はあっさりと答えた。

「とくにないわよ。 なんとなく、あそこに貴方がいたからよ」

 だけど、

 幽香は続けて言う。

「試してみたくなったの。 人間の生命力ってものを。 植物に比べたら微々たるものだけど、中々どうして人間という生き物は面白いわ。 とくに、あなたのような──はみ出し者になった存在わね。 あなた、私に飼われてみない? 満足させてあげるわよ?」

 彼方の顔を上げさせ、自分の瞳とまっすぐぶつける。 舌なめずりをして、愉快そうに嗤う。 既にそこには、彼方が最初に抱いた清楚な女性など存在していなかった。 彼方は何も言わない。 何も言えない。

「バカなこと言わないで頂戴、幽香。 彼方には雑用が残っているのよ?」

「彼方ちゃんは私が引き取るので結構です!」

 霊夢と早苗が強引に幽香の手を引き剥がした。 そして二人して幽香に詰めよる。

「どこのどなたか存知あげませんが、彼方ちゃんは私の家で引き取りますので結構です!」

「彼方は博麗神社で雑用が残っているからアンタは出てこないで頂戴」

 あまりの二人の気迫に、先程までの怖い雰囲気を完全に消した幽香は、

「え? ちょ、ちょっとまってよ。 お、落ち着きなさいって」

 と、困った顔をしながら二人を諌めることとなった。

「はぁ……。 アンタも大変ね。 とんでもない人物に目を付けられて……」

「そういう鈴仙はずっと後ろに隠れてたな」

「こ、怖いものは怖いのよ! ……それと、彼方は永遠亭に来てもらうわよ。 ほ、ほら、まだ体が完全に治ったかどうかわからないし……安静にしておかないとダメだし……」

 言葉を発するに従ってどんどん尻すぼみになっていく鈴仙。 彼方はそんな鈴仙に、

「……えっとさ鈴仙。 いまこの場でいうのもなんだけど、鈴仙に出会えてよかったよ」

 そういいながら微笑んだ。

 その言葉は鈴仙のみならず、前方で言い合いをしていた三人にも聞こえてらしく、約二名ほど無言で骨を鳴らす作業に入っていた。 鈴仙はそんな二人に慌てながらも、意図を確かめようと横にいる彼方へと振り向く──

「……あ、あれ? 彼方……?」

 振り向いた先に、彼方の姿は見当たらなかった。

             ☆

 不知火彼方はとある場所に立っていた。 目の前には青色のミニスカ着物に髪をツインテールに結び、金色の瞳が印象的な彼女が同じように立っていた。

「あ、あの……ずっと前から彼方クンのことが大好きだったんです! 僕をめちゃくちゃに犯してください! ──なーんてことをいうと、君はどんな反応をするのかな? 気分はどうだい、彼方クン?」

「そんなことのために俺を呼び出しのか?」

「ん? いやいや違うよ。 外の世界にもはや帰ることができない彼方クンのために、僕なりに元気づけようとしたんだけど……、ダメだったかな」

 新宮妲己はくすくすと笑った。 そしてそのまま、彼方に近づき握手を求める。

「人間卒業おめでとう彼方クン。 いや、これはあまりにも不適切だから言葉を変えよう。 種族卒業おめでとう、彼方クン」

 ニコニコとした笑みで愛嬌のある笑みで、彼方へと握手を求める新宮。

「まいったなぁ……。 もしかして皆にもバレてる?」

「いや、一部の妖怪以外にはバレてないと思うよ。 だけどまぁ、時間の問題だよね。 いつかは気が付くんじゃないかな?」

「そっか……」

 うつむく彼方に新宮は声をかける。

「後悔してるだろ? 反省してるだろ? たった一回の弾幕戦の代償には大きすぎる。 そう思っているだろ? 当たり前だよね。 人間にも成れず、妖怪にも成れず、神様にも成れず、妖精にも成れない。 いまのキミは成れの果てだ。 しょうがないよね、これもキミが望んだことなんだから。 キミは茨どころか、修羅の道を選んでしまったんだよ」

「新宮は分かっていたのか? 俺の能力をフルに使ったら、こうなるってことがさ」

 彼方の言葉を聞いて、新宮はニンマリと嗤って見せた。

「わかっていたよ。 わかって僕はキミの背を押したんだ」

「そっか」

 彼方の態度に新宮は怪訝な表情を浮かべる。

「おいおい彼方クン。 怒らないのかい? 僕のせいでキミは人間の道にも妖怪の道にも神様の道にも妖精の道にも進めないんだぜ? 踏み外したんだぜ?」

 いわば僕がいまのキミの現状を作ったといっても過言ではない。 だというのに、何故キミはそんな笑っているんだ?

 そう問う新宮に彼方は、

「もしあそこで進まなかったら、俺は畜生に成り下がっていた。 後悔? 反省? そんなこと、俺は既にやりすぎて飽きたよ。 人間の道? 妖怪の道? 神様の道? 妖精の道? 確かに魅力的だ。 確かに俺も進みたかった。 けど、俺はもう自分の道を見つけたから。 自分が進むべき道を見つけたから、既存の道になんて興味ないよ。 俺は──不知火彼方の道を歩む」

 そう毅然と言い切った。

「……バカじゃねえの。 そういうのが一番大嫌いなんだよ。 分かってるのかい? キミが形を保つ限り、想いはどんどん乗せられていく。 やがて視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚までも失われ、キミは文字通りの“成れの果て”になるんだぜ? 怖くないのか?」

「怖くない、なんてこと口が裂けても言わないさ。 けど──見えない未来より、掴める明日を選んだだけだ」

 不知火彼方に後悔の念は見当たらなかった。 これこそが最大の道だと自信をもって言い切れる。 それは新宮を前にしても変わらなかった。

 そんな彼方を見て、新宮はバカらしくなったのか、ため息を吐いて霞のように消え失せる。

 『いつ助けを乞うか見物だね』

 そう言い残して完全に消え失せていった。

 後に残されたのは彼方一人。

「外の世界、もう一度だけ見たかったかも」

 か細くポツリと呟いた彼方の声は、誰が聞くこともなく風に吹かれていった。




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