十四話
僕の心はひどく落ち着いていた。
佳奈を送り届けたとき、佳奈のお母さんからはすごく心配してもらった。僕のことは大丈夫ですから、僕のせいで佳奈にこんな思いをさせてごめんなさい。と謝る僕に佳奈のお母さんは全てを知った風に頷いてくれた。
もしかしたら佳奈が学校でのことをずっと家族に相談していたのかもしれない。佳奈はそんなこと当事者には知らせないタイプの人間だから、いまの状態となっては知る由もないのだが。
それにしても……いくところまできちゃったようだ。もう……甘いことは言ってられないか。
「やっぱり……殺すしかないか」
「ぽぽぽ。人間同士ですら、争い、戦争が起きているというのに、種族が違う者同士で血が流れないなんてことのほうがおかしいんだよ明。そもそも価値観がまったく違うのだから」
「……みたいだね」
価値観……か。
「とりあえず家に帰ろう。いまさら学校に行く用事もないし、学校にいってもつまらないし」
「わーい!きょうははやくいえにかえれる!しゅりうれしい!」
「ほんと? それなら今日からずっと学校には行かないでおこうかな? それかいっそ佳奈と二人で退学してどこか知らない土地に行こうかな。子どもも一人くらいなら養えるかもしれないし」
両手を掲げるしゅりを抱っこしながら僕は佳奈との幸せな新婚ライフを想像してみる。エプロン姿の佳奈がいて、それでいて小さな女の子がいて、その女の子をお姉さんポジションのしゅりがお世話する。そんな僕にとっての都合がいい世界。
あぁ──夢みたいだ。
僕はそれ以降、何も言葉を発することなくしゅりも何も聞かないまま帰宅する。僕の予定より物凄く早い帰宅時間に驚きエプロン姿の母さんが血相変えて駆け寄ってきた。
「ど、どうしたの明!?また学校で何かされたの!?」
「いやちょっと佳奈の気分が悪くなってね、家まで送ってたんだ」
「まぁ佳奈ちゃんが? それで大丈夫なの? お母さん佳奈ちゃんのお母さんに後で連絡入れておくけど……」
「うん、問題ないと思う。でも中学校のときみたいに佳奈がまたブチギレてね。僕を庇って」
「……そう。ふふ、いいお友達をもったね、明」
「うん。本当にね。あ、そういえば母さん。僕の昔のアルバムってある? 僕が小学校に上がる前の写真とかあると嬉しいんだけど……」
「うーん……そこらへんの写真は全部燃やされたのよね。義両親が燃やせ燃やせとうるさくて。お母さんもお父さんも反対したんだけどね……。お父さんなんてものすごく怖かったのよ? 『こんなにも明は笑顔で写真に写ってるのにそれを燃やせっていうのか!子どもの笑顔を絶やす親がどこにいるんだッ!』ってね。でもやっぱりダメだったわ。多分あれが決定的になってお父さんはあの村を見限って此処に越してきたんだと思うけど。だからもうないとは思うんだけど……一応探してみるわ」
「うんありがと」
母さんに礼をいって僕はそのまま二階へと続く階段を上る。その途中、僕は母さんに声をかけた。後ろは振り向かず背面でキャッチボールを送る。
「ねぇ母さん。変なこと聞くかもしれないけどさ、昔その……姫条茜さんっていたよね?」
僕のそのボールを母さんは見事にキャッチして僕に送り返してくれた。
「えぇいたわよ。確か明とも仲良くていつも一緒に遊んでたじゃない。二人で恋人ごっこーとかいって遊んだりもしてたわね。なに? もしかして忘れてたの?」
「いやいや違う違う。昔のことを思い出してただけだよ」
母さんの返答に満足し、僕は二階に駆け上がる。
二階の一室にある自分の部屋に入ると、しゅりがまず一目散に僕のベッドに飛びついた。それを見ながら僕はブレザーを自分の椅子にかけて座る。
しゅりが僕のことをじっと見つめていた。赤く光る爛々とした瞳を向けていた。
「ぽぽぽ……どうやら愉快なことになってきたの明?」
「ほんとだよ。ビックリさ。もしかしてしゅりはこうなることが予測できてたの?」
「……ひみつ。しゅりにとってはどうでもいいことだからの」
「そうだねしゅりにとってはどうでもいいことだよね。でも──僕にとってはどうでもよくないよ」
あのとき、姫条さんが僕と佳奈と過ごした記憶を失ったとき僕はひたすらに動揺した。
「姫条さんは僕と会ってからずっとこんな思いをしてたんだね。僕ねしゅり、いまにも叫びたい衝動に駆られてるんだ。いま大声を出して叫んでこの心のもやもやを解消したい。でもいまそんなことをしても無駄だってわかってる。僕はようやく理解できた。皮肉だけど姫条さんが記憶を失くしたおかげで自分がどんな立場に置かれているのか、僕がどんな立ち位置にいたのかよく理解できた。そして僕は大事な大事な佳奈を泣かせてしまった。姫条さんだけでは飽き足らず、僕は佳奈まで傷つけ嫌な思いをさせてしまった。最低最悪のゲス野郎だった」
そういう僕にしゅりは問う。
「ふむ、してどうする?」
まるで試すかのごとく僕を見てくるしゅり。値踏みするような目で僕を見るしゅりにハッキリと自分の主張を述べた。
「僕はもう迷わない。もう選択肢を間違えない。しゅり、五郊を殺してくれ」
しゅりはそれに笑顔で応える。
「りょーかい!」
☆
「それじゃ委員会を終わりにします。皆さんこんな頻繁に委員会をしてごめんなさいね。どうしても年間の始めはこうやってスケジュール確認をしたり行事ごとの役割を決めたりで忙しいの。でももう安心して。これからゴールデンウィークが終わるまでは一切ないからね」
その会長の一言でこの場にいた全員がほっと息を吐く。かくいうわたしもその一人です。連日張り詰めた生徒会室にいるとどうしても気が滅入ってしまいます。でもまぁ……今日で終わりだからいいですけどね。
机に出していた筆記具とノートを直して席を立つ。そこに丁度いいタイミングで五郊君がやってきた。
「姫条さん、お疲れ様」
「いえいえ、五郊君もお疲れ様です」
「それじゃ行こうか。早くしないと完全に夜になっちゃうよ」
「そうですね。そうしましょう」
五郊君がわたしに手を伸べてくる。わたしはいきなりのことでふいをつかれたのと、何故さし伸べてくれたのかがわからずきょとんとしていると、五郊君は笑いながらわたしの鞄を指さした。
「鞄持つよ。姫条さん律儀に毎日教科書もって帰るから重たいでしょ?」
「え?い、いいですよそんなこと……」
「いやいや持たせてよ。学校のアイドルで天使である姫条さんの鞄なんてそうそう滅多にもつ機会ないしね」
「もう、おだてたって何もでませんよ」
「ふふ、それはどうかな?」
五郊君に鞄を渡して生徒会室をでる。わたしと五郊君はそのままの足取りで昇降口──ではなく自分達のクラスに歩を進める。ようやく自分達のクラスを視認できた頃、わたしはふと視界に飛び込んでくるあるものに目をやった。
「先程から思ってましたけど綺麗な夕焼けですねー」
「うん、綺麗な夕焼けだね。でもちょっとだけ眩しくもあるかな?」
わたしたちの学校は全面ガラス張りで構成されている特殊ケースの学校である。まぁ外部から見える範囲はどこの学校とも変わらないので全面ガラス張り構成の校舎は本館と呼ばれる主に生徒が使う校舎だけなんですけどね。
そこからわたしと五郊君はいまにも沈みそうな夕日を拝む。赤く赤く染まるわたしの顔、すぐ横を見ると五郊君も同時にわたしのことを見ていた。
「ねぇ姫条さん。一つ質問していいかな?」
見つめ合ったまま、五郊君がきいてくる。
「なんであんなに楯梨君のことを庇うわけ?」
「……え?」
再度歩き出そうとしていた足が止まる。
「ど、どういうことですか?」
「だってそうでしょう? 今日の姫条さんは少しおかしいよ。あんな男を庇うなんて。それに楯梨君の隣にいた片桐さんだって姫条さんにあんなに酷いことを言ったんだよ? 担任の先生や学年主任の先生にいえば対処だってしてもらえるし処罰だってできる。何故そうしないんだ?」
まるでわたしという存在が理解に苦しむような、そんな表情を見せる五郊君。それにわたしは反論する。
「確かに佳奈ちゃんのは怖かったですが、だからといって相手の気持ちを理解もせずに頭ごなしに先生という存在を使って封じるのはよくないと思います。それに佳奈ちゃんは明君のお友達です!昨日だって一緒にお昼を食べて体育で一緒のパートナーになって──」
あれ……?いまわたしは何を言っているのだろう?
自分自身が言ったことを理解できずにいる自分がいる。
佳奈ちゃんと楯梨君と一緒にお昼を食べた?いや違う。昨日わたしは五郊君と一緒にお昼を食べたはず。だってそのときに五郊君と楯梨君と片桐さんのことを相談したから。
佳奈ちゃんと体育でパートナーを組んだ?いや違う。だって佳奈ちゃんは昨日保健室で体育を休んで欠席してたはずだから。
いやでも違う。あれは違う。いやこれは違う。となるとこれも違ってくるの?
あれ……?いったい何が違うの?
「あ、あれ?どうしたんでしょうか? 佳奈ちゃんとは今日初めてお喋りして、でもそれは違くって、楯梨君とは今日初めて会話して、でもそれも違くって。でもでもわたしにはそんな覚えはなくて、あぁこれも違うあれも違うそれも違う──どれも違う」
じゃぁ一体に何が正解なの?
自分の中で正解を模索する。しかしまったくもってわからない。何が正解で何が不正解なのかわからない。自分の中に別々の記憶が入り込んでくる。一つは元々あった記憶。そしてもう一つは身に覚えのない記憶。
知ってる記憶のわたしは女子のクラス委員で五郊君と一緒に一生懸命仕事をしてて、クラスで孤立気味な楯梨君と片桐さんをクラスに馴染ませようと必死に努力してるわたしの記憶。
知らない記憶はわたしが明君と携帯の連絡先を交換して喜んでたり、明君と佳奈ちゃんの関係をみてちょっと嫉妬したり、明君の隣にいる小さな女の子に誹謗中傷を言われて傷ついて、でもそのたびに明君が慰めてくれてフォローしてくれて──そんな明君をみてわたしはまるで恋する女の子のような表情を浮かべている。
四肢に力が入らずぺたんと座り込む。余力がないわけじゃない、ただ単純に何もわからずこの場に留まっておきたいだけ。この場に居ても二つの記憶は脳裏を駆けるというのに。
そんなわたしを五郊君は見下ろしていた。つまらないものでもみるかのように、出来損ないのショート寸前の機械を眺めるかのように、無機質な瞳でわたしを見ていた。
あぁ……なんで人ってこういうときにこの言葉が出ちゃうんでしょうか。委員会も終わって大分時間が経った。文化系の部活は本校舎には存在しない。職員室は視界からは見えない。見えるのはわたしが在籍する学年と、わたしが毎日通うクラスのプレートだけ。そんな状況なのに、自然とわたしはこの言葉を口にした。応えてくれる人なんていないのに。
「……誰かわたしを助けて」
『今日の日直日誌。今日は姫条さんが廊下で助けを呼びました。僕は前に姫条さんと約束したので王子様みたいに助けようと思います』
ふと自分達の教室から聞き覚えのある声が聞こえてきます。一方の記憶では初対面の人。もう一方の記憶ではわたしの大好きな人。
わたしは四肢に余力をありったけ注ぎ込み必死に足を動かします。教室の前までたどり着き扉を開けると──いつもの席でいつものようにわたしを笑顔で迎え入れてくれました。
「やぁ姫条さん。綺麗な結晶だね」
「明君……!」
駆け寄るわたしを明君は優しく抱きしめてくれました。あぁ……何年振りでしょうか、こうしてわたしのことを抱きしめてくれるのは。
何秒、何十秒も抱きしめ会う二人。
「あの……姫条さん? そろそろ離れてくれると……」
「もう一生涯離しません。もう二度と離ればなれになるのは嫌なんです……」
「へぇ……そっちの記憶を取ったんだ。意外だなぁ。折角別の記憶を用意してあげたのに。……やっぱり即席の記憶じゃ敵いっこないみたいだね。あっさりとボロがでたし。いや……キミの元の記憶の抵抗が凄かったのかな?」
わたしと明君の世界に違う異物が紛れ込む。明君はその人物を確認するとそっとわたしを離し、一歩自分が前にでて背中でわたしのことを隠してくれる。
あぁ……昔もこうやって明君はわたしのことを守ってくれていましたね。わたしはちゃんと覚えてますよ。いまでも覚えています。あの時の明君の体温も鼓動も全部全部覚えています。そして知っています。
こういうときの明君がとても頼りになることを。
「悪いね五郊。日誌の部分に何も書かれてなかったから僕が代筆してあげたよ」
「そりゃどうも。ところでキミなんで此処にいんの?」
「姫条さんに用があったからさ。ついでにキミにもね」
扉を閉めて五郊は教室の中に入ってくるなり僕のことを鼻で笑う。
「はっ、いまさらなんの用があるってんだ? 俺はなんでも知ってるんだぜ? お前が記憶喪失で幼少時代のことを何も覚えてないことを。それでいまさらどの面下げて会いにきたんだよ」
確かに五郊の言っていることは正論だ。思い出せない記憶なんて意味がない。僕は記憶を失くし、彼女の思い出を踏みにじった。それだけじゃなく現在進行形で彼女を虐めている。僕といるだけで、僕と会話するだけで彼女は昔と比較して胸を痛めるだろう。
「確かに僕は彼女の思い出を踏みにじったし、彼女を深く傷つけた。それに気づいたのはお前のおかげだよ。その点は感謝してる」
「ほぉ……殊勝だな」
「たださ、お前僕が言ったこと一つ忘れてるだろ?」
僕は忠告してたはずだ。
「佳奈に指一本でも触れたらただじゃおかないと僕は宣言したはずだ」
刹那、僕の前に彼女が現れる。
紅き瞳に返り血を浴びたような鮮血で染めた着物、風にはためかせる闇夜の髪に、その長身に見合った刀を腰に差した彼女は瞬きする暇さえ与えない速さで五郊の頭を掴み、床に叩きつけた。その衝撃で五郊の頭を中心に蜘蛛の巣状に床が割れる。さらに追い打ちとばかりに左足で伏した五郊の頭を打ち抜く。
僕は咄嗟に姫条さんを自分の胸に抱き寄せた。決してこれは見せられるものじゃない。なんせ割れた蜘蛛の巣状のヒビを伝い赤い血がどんどん流れ込んでいるのだから。
僕はそんな五郊を見ながら彼女に頼む。
「そっちは任せていいかな、朱里」
「もとよりそのつもりだろう。妖怪のことは私が担当するとさっき約束したはずだ。それに私もちょっとばかしこいつに聞きたいことがあるのでな」
「うぅ……」
呻く五郊などお構いなしに朱里は教室の扉を突き破り、正面の窓ガラスをぶち壊し、上目がけて一目散に跳んでいった。きっと屋上に行ったのだろう。本来ならば行くことができないルートなのだが……そんなもの彼女には関係ないか。それはあくまで僕達人間の都合であり常識だ。
「さてと。姫条さん、僕はキミに用があって此処にきたんだけど……って聞いてる?」
僕は後ろで口をあけて茫然とする彼女に声をかける。両肩を掴み揺さぶりながら何度も何度も彼女の名前を呼ぶと、ようやく姫条さんは気づいたのかはっとした表情で先程まで五郊の頭を朱里が床に叩きつけていた場所を指差した。
「い、いまのはなんですか明君!?いま赤い着物をきた美人で綺麗な女性のかたが……!」
「朱里だよ、姫条さん。いつもいつもキミに悪態ばっかついていたあの小さな小さな女の子だよ」
「で、でもしゅりちゃんはとっても小さくて可愛らしい女の子で……」
「でも、あんなに美人で綺麗な女性でもあるんだ」
僕の話についていけないのか姫条さんは首を傾げる。それもそうだろう。なんせ僕だって初めは信じられなかったんだから。あの少女のしゅりが身長180cmほどの長身の女性でおまけに思わず他の美人と呼ばれる存在が霞むほどの美人に早変わりするのだから。
「僕もあの朱里に会ったのは中学三年生のときだったよ。ちょっと色々と問題が起きてごたごたして、そのときの僕は佳奈や佳奈の両親、そして僕の両親の支えがあったけど……それでも事態は一向に解決しなくってもうどうしていいのか分からず、絶望の淵で助けを呼んだ。そのとき、彼女は姿を現したんだ。希望という存在でね」
僕は彼女に感謝してもしきれないほどの恩をもらった。そして同時に彼女の力の一旦を垣間見て恐怖も覚えた。
「朱里があの姿で顕現した以上、じきにあっちも片がつくよ。朱里はこの世界に存在する誰よりも強い」
「ど、どうしてそこまで言い切れるんですか?」
「うーん……なんでだろうね? 自分でもよくわかんないや」
僕がどうしてそこまで朱里を信じられるかって?そんなの彼女の力を直視したらいやがおうにもそう思う。ただ……姫条さんには見せたくない光景だ。
「まぁ朱里のことは一旦置いて。さっきも言ったけど姫条さん、僕が此処にきたのは他でもないキミに用事があってきたんだ」
僕がそう言うと姫条さんは体を硬直させてじっと見つめてくる。僕はブレザーの内ポケットの中に忍ばせておいた一枚の写真を取出し姫条さんに見せた。
「僕が村にいた頃の写真はほとんど燃やされていまはこの一枚しか存在しないんだけど……覚えてるかなこのこと?」
「あ、これって……」
姫条さんはそっと僕の写真に触れた。懐かしむように僕の写真を触れる姫条さんに僕はそっと写真を手渡した。まじまじと見る姫条さん。何度も何度も目をしばたかせる。目からはぽろぽろと綺麗な結晶が零れ落ちた。嗚咽混じりのその声に僕はなんともいえない感情をもつ。いまから僕がいうことがどれほど罪深いことなのか再認識させられる。
写真には幼少期の僕と姫条さんが写っていた。
二人して仲睦まじそうに笑い合って一緒に写真をとっていた。おままごとの一シーンのようだった。そこには小さな小さな恋人たちが写っていたのだった。
姫条さんはいまだ止まらぬ涙を押さえながら何度も何度も頷いた。
「これ……わたしと明君の小さな頃の写真です……。その日はわたしが明君の家に押しかけて強引に恋人ごっこをした、始めての日なんですよ……。ふふ、思い出してくれたんですね……」
強く強く写真を胸に抱きながら僕に微笑みかけてくる姫条さんに、僕は最低の言葉を吐いた。
「ごめん。その写真をみてもやっぱり僕は昔のことを思い出せなかったんだ。昔の姫条さんは度々僕の脳裏をよぎる。度々僕に笑いかけてくれる。でも……僕は村のことを何も思い出せない」
佳奈を送った後、僕は母さんに現存する写真がないか探してもらった。そして見つかったのがこの写真だ。母さんはとても懐かしい写真だと言ってくれた。僕と姫条さんの小さい頃の話もしてくれた。それでも、それでも僕の記憶は戻らなかった。掴んでも掴んでも決して捕まらない雲のような記憶。僕はとうとう見つけることができなかった。
「ごめん。本当にごめん姫条さん……」
僕はただ頭を下げて謝ることしかできなかった。
姫条さんが僕と佳奈との記憶を失っていた間、僕がどれだけのショックと痛みを伴ったか僕は決して忘れているわけではない。だけど……姫条さんの場合はそんな僕のかすり傷とは多大違いの傷を受けていると思う。
「公園でキミは僕に質問してくれたよね? 後悔してないのかって。僕はあのとき後悔してないと答えた」
でも──
「でもキミの立場になってやっとわかった……。僕はとんでもない最低最悪の言葉をキミに浴びせたのだと……」
後悔じゃない。罪悪感だ。
僕が後悔しないのなんて当たり前だ。僕にはしゅりがいて佳奈がいて両親がいるから。例え記憶が戻らなくても僕は幸せな生活を送ることができる。後ろにいたかつての友達の声なんかに耳を貸すことはない。だけど──だけど彼女は違うはずだ。
あのときだって確かに小さな痛みはあった。裁縫針でちくちくと刺す痛みはあった。だけどたったそれしきの痛みだろう?
彼女は違う。僕のあの一言が彼女をどれだけ傷つけたか。
だから僕は彼女にひたすら謝罪した。
既に夕日は完全に落ち、夜が僕達を包みこむ中で僕はひたらす彼女に頭を下げた。謝ったところで記憶が戻ってくるわけでもないのに、それでも僕は彼女に謝った。
そんな僕を彼女はそっと抱きしめてくれた。みっともなく謝るだけの男を姫条さんは優しく包み込んでくれた。僕が今日佳奈にやったように、僕が毎日しゅりにするように、僕の背中をぐずる赤ん坊をあやすかのごとく優しく叩く。
「大丈夫、大丈夫ですよ。問題ありません」
よく聞いておいてくださいね?
そう姫条さんは前置きしてそのままの格好で僕に諭すように話しかける。
「わたしは明君に会えただけで幸せなんです。ずっと大好きだったあなたに会えたそれだけでわたしの心の幸せメーターはパンク寸前です。記憶が戻らないのは残念ですが、だからといって記憶が消えたわけではありません。もしかしたら徐々に徐々に戻るかもしれません。明君、希望を捨てるなんて言語道断ですよ?それに──あなたとの思い出はなにも昔のものばかりではありません。ファーストフードでご飯を食べたり、暴言を吐くしゅりちゃんを庇ったり、公園でデートしたり、教室で佳奈さんと三人でお弁当を食べたり──こうして助けにきてくれたり。昔の思い出に負けないくらい大切な思い出をわたしは作りました。ねぇ明君?明君にとってわたしと過ごした数日は取るに足らない思い出にすらならない時間だったでしょうか?」
僕は首を横に振ってこたえる。
「そんなわけない……!僕のとって最高の思い出だったよ。だって学校のアイドルで僕が彼女にするならこんな人がいいなって考えてた人なんだから……!最高の思い出に決まってる!」
「ならそれでいいじゃないですか」
「……え?」
驚く僕に姫条さんは笑顔を向けながら、
「記憶なんて戻らなくても最高の思い出は作れますよ、明君。だから明君ももうそんなに自分を責めないでください。そっちのほうが悲しくなってしまいます。明君はわたしに最低な思い出を作らせる気ですか?」
「いや、そういうわけじゃ……」
「じゃぁわたしの思い出関係で自分を責めるのは一切禁じます。よろしいですね?」
「は、はい……」
「よろしい」
そう答える僕に姫条さんは満足そうに頷く。そっと僕と姫条さんの体が離れる。姫条さんはとても満足そうでかつ晴れやかな笑みを浮かべていた。
「それじゃさっそくですが……明君にはわたしの思い出作りに協力してもらいます」
何故かやる気満々、瞳爛々で輝いている姫条さんに、僕は言い知れない何かを感じて一歩下がる。
「あ、ちょっとなんで逃げるんですか!?わたし泣いちゃいますよ!」
「あ、いや違うんだ!これには深いわけが──」
「ダメです!明君には協力する義務があるんですから!」
先程の天使の微笑みはどこへやら、物凄い剣幕で僕に詰め寄る姫条さんに僕の体は防衛行動を取ろうとするがそれよりも速く姫条さんが動いた。
「っ!?」
自分がいま何をされたかよく分からなかった。理解できなかった。
それでも僕の海馬はしっかりとメモリーとしていまの光景を焼き付ける。何枚も何枚も大量に同じ光景を作成する。
天にも昇る、という言葉をこれほど実感できた覚えはないだろう。
僕の鼻腔にほのかに香る彼女の香り。香水にしては甘く、純度の高いその香りは僕の脳髄を溶かし侵食する。しゅりのときとはまた違う感覚が僕を襲ってくる。
ほんの数秒の出来事が、僕には何年分にも感じられた。
そっと彼女の唇が僕の唇から離れる。
何も言えない僕に、彼女は恥ずかしそうにハニカミながらこう述べた。
「記憶は忘れてもキスの味は忘れないでくださいね」
この学校の生徒達は姫条茜のことをこう評す。
アイドルであり現代に舞い降りた天使だ。と。
僕はこれを最初に評した人物にハグをしたくなった。
彼女を的確に表す言葉を考えてくれてありがとう。とお礼を述べながら。
☆
時間は朱里と明が分かれた時間までさかのぼる。
明が姫条相手に贖罪をしている時間、屋上に場所を移したこの男は自分の目の前でただ悠然と佇んでいる彼女を相手に既に戦う気力を失っていた。先程の一発だけで既に勝敗はついた。
それでも男は必死に自分を鼓舞して朱里に挑む。
「うわぁあああああああッ!」
朱里はそんな男の顔面に容赦なく拳を叩き込む。
顔は腫れあがり鼻は折れおびただしいほどの鼻血が流れている。そして男の体は細かに震えていた。それは恐怖からくる震えであった。男は本能的に悟っているのだ。自分がもう助からないことを。それでも男は叫ばずにはいられなかった。自分の目の前でつまらなそうに見下ろす女に叫ばずにはいられなかった。
「くそくそくそッ……!なんでお前みたいな化け物がこんなバカみたいな箱庭の中にいるんだよ……!危険度Sランク特別指定の化け物……!呪怨姫……!災厄纏いし力の権化……!」
「ぽぽぽ、私にそんな呼び名がつけられているとはな。中々いいセンスをもっている者がおるようだな」
呪怨姫と呼ばれた朱里は何度も頷きながら名も知らぬ誰かを賞賛する。
男の震えはとまらない。いやむしろ先程よりも細かにそして大きく震えあがっている。そんな男をみて朱里はため息を吐いた。
「しかしまぁ……今日の昼までの威勢はどこへいったのやら。とうとう自分を取り繕っていた強者というみすぼらしい化けの皮が剥がれたの、野槌よ」
朱里は会話をするかのごとく男の右手をパキリと折る。枯れ枝を折るように右手を折った朱里に、野槌と呼ばれたその男はひっと息を吸いこんだ。恐怖で既に痛覚はマヒしていた。それでも決して喋ることは止めようとしない野槌。野槌の心は喋ることを止めれば殺されるという想いに支配されていた。
「うるせえうるせえうるせえ……ッ!俺の計画は──」
「計画? そんなもの、最初から失敗していただろう。貴様──私からずっと逃げていただろう?」
「ヒッ!?」
ドスの利いたその声に野槌は固まった。
「いつもいつも接触するときは近づかないように努力していた。明にまとわりつく女を利用したり、不必要に間合いを詰めようとは思わなかったな」
例えば、姫条と明が接触以降クラスの雰囲気が明らかに変わった。そんな中、明と佳奈の席で自身も勉強に参加をした姫条にクラス中の目が集まることがあった。そのクラスに佳奈は天然で反論すると、何処からともなく五郊がやってきてその輪の中に加わった。佳奈の肩に手を置いて明の直線状に佳奈という人物を添えて。
例えば、五限目の体育の着替えのとき、明が教室で野球部に殴られそうになったとき五郊はそいつを言葉だけで追いやった。そして明と一対一で対話する。一歩もその場から前進していなかった。
「今日の昼間は怖かっただろう。すぐ横に私がいたのだから」
まるでいじめっ子がいじめられっ子にするようにニヤニヤとした顔を五郊に向ける朱里。
「自分を鼓舞し虚栄心だけで作ったシナリオの出来はどうだったかな? ま、それも私がいたおかげで狂ったわけだがな。お前達の種族はあんな場面で相手に自分の思惑や目的をぺらぺら喋るほどバカじゃないからな。貴様、焦ったな?」
野槌の中で何かがぷっつんと切れた。
「うるせぇえええええッ!黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れッ!あともう少しだったのに!もう少しだったのに……!」
「先程から語彙力に乏しい見るに堪えない奴だな。不細工な面が直視しただけで嘔吐してしまう下呂面になってしまったぞ」
「お前のせいで……ッ!お前がいたせいで……ッ!」
睨む五郊を朱里は鼻で笑った。
「はっ。貴様忘れてないか? 私達の世界は弱肉強食。弱者がまともな道を歩めると思っているのか? ゴミめ」
その言葉が五郊の中の最後の砦を壊した瞬間だった。
「いやだぁああああああああああッ!死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて!」
「ふむ……よく回る口だ。おい、野槌。貴様には殺す前に聞きたいことが一つあるのだが──」
「死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて!」
既に五郊には朱里の声など聞こえていなかった。自分が殺される。自分の目の前に迫ってくる死から逃れたい、それだけのために声を出す。そしてそれは結果的にいえば朱里を怒らせる手段となった。
朱里は死から必死に逃れようとする五郊の左手首を腰に差していた刀で刎ねる。その切れ味は凄まじく流れるような線を描いて左手を刈り取った。刀には血糊一つついていない。
五郊は一瞬何が起きたのか理解できなかった。その間も五郊の既に宿主を失くした左手からは勢いよく血が流れ出る。止める術など持ち合わせていないそれは、マグマのようにどんどん屋上の地面を赤へと染めていく。
五郊はようやく自分がいま何をされたのか理解する。そしてそれと共に急激に痛みは津波となって押し寄せて自身を襲う。
「ぎゃ──」
「黙れ」
耐えがたい痛みに思わず声が出る、その間際朱里は自分の刀で刎ねた左手を拾い五郊の口に強引に捻じ込んだ。
その姿は五郊の手によって飲み込まれた者が、せめてもの抵抗として必死に飲み込まれないように抗っているように見える。
五郊は自分の刎ねられた左手からどろりと自分の口に血が入り込むのを自覚する。咽喉を漏らす。血が食道を通り胃に流れ込んでくる。
胃液は逆流し吐き気を催すが、それはなんとか飲み込んだ。殺されたくない一心で飲み込んだ。
血飛沫が着物を紅く染める中、朱里はようやく黙った五郊に問う。
「お前がこの学び舎と淫乱女に使った術は本来人間だけが使える高位術式なはずだが、どこでそれを習った?」
五郊は朱里の問いに首を振る。朱里は舌打ちをしつつ五郊の足の皿を片足ずつ踏みつける。五郊の足からはパキリという生理的に嫌悪感と警戒を抱く音が聞こえてきた。
「使えん奴だな。まぁいい。私もそろそろ明が恋しくなってきたし……」
すっと五郊を見る朱里の目が細くなる。
「殺すか」
刀を脇差に戻すと朱里は虚空に向かって左手をかざす。するとその左手からは瞬く間に夜の帳に煌々と煌く炎が纏いだした。
死が自分の眼前に迫った五郊は左手を吐き出して口走る。自分が助かりたい一心で叫び声をあげる。
「本当に俺を殺してみろッ!俺がどこのモノかわかるだろ!?俺は日ノ本一の最大勢力蛇一族のモノだぞ!?」
涙を浮かべながら鼻水を垂らしながら、嗚咽混じりに五郊は恫喝する。五郊の下半身は血と尿が混じった液体で濡れていた。そんな五郊は見て、朱里は冷酷に告げる。
「知ったことか」
紅蓮の炎が五郊を襲う。炎の渦の濁流が五郊の顔を、五郊の体を飲み込み弄ぶ。五郊は声にもならない叫びをあげる。朱里はそんな五郊に話しかける。
「あぁそういえば、貴様に言っておきたいことがあってな。もし……もし明がお前をはじめから殺そうと決意していたならばお前は会ったその日に死んでいた。明は最後の最後までお前を殺さずお前を制するつもりだったらしい。まったく相も変わらず甘ちゃんな奴だ。ほんと……可愛い奴め」
まるでペットを愛でる表情を浮かべながら話す朱里は物言わぬ炭となった五郊に冷めた目を向ける。
「お前も学校の生徒ならば学校のルールくらい守らないとな」
朱里の髪が風に遊ばれる。風は朱里の髪で遊びながら、炭となった五郊を空へと運んでいった。
☆
エピローグ
翌日、僕は彼女と一緒に登校しようと彼女の家まで迎えにきた。昨日の今日で彼女が学校に登校するかどうかは別問題だけど。
呼び鈴を鳴らす。十秒くらいした後、家から彼女の声が聞こえてきて次いでたったったと軽やかな足取りが聞こえてくる。
「はい、どうしました? って、明くん? どうしたの?」
ガチャリと鍵が回り玄関が開く。玄関を開いたのは制服姿の佳奈だった。その後ろには佳奈のお母さんが見える。僕は佳奈のお母さんに挨拶を済ませると、佳奈を登校に誘う。
「佳奈、今日は僕が迎えにきたよ」
僕の誘いに佳奈は頬を掻きながら明後日の方角をみる。
「……もしかして心配かけちゃった?」
「かなり。でも佳奈が僕のために怒ってくれたのは分かってるし、嬉しかったよ。ありがとう、佳奈。そしてごめん。最低な僕で」
「いつかいっぺんにお返ししてもらうからいいよ。それにしても明くんが早起きしてくるなんて意外だね。明日は槍の雨が降るのかな? ちょっとまってて、登校の準備してくるから」
「うん」
家の中へと入っていく佳奈。それにしても佳奈は僕のことを誤解してるんじゃないだろうか?別に僕は寝坊助じゃないんだぞ。
手持無沙汰でまつ僕に佳奈のお母さんが玄関までやってきて僕に話しかけてくれた。
「おはよう明君。今日は昨日とは打って変わっていい表情してるわね」
「え? そうですか?」
「ええ。昨日はなんというか……腹に据えかねたって言葉が似合うような表情をしていたわ。でも今日の明君は私の知ってる明君。佳奈が大好きな可愛い可愛い明君よ」
佳奈のお母さんは僕の頭を撫でながらそう評価してくれる。昨日は佳奈のことや姫条さんの失敗も重なって精神的にもギリギリだったからなぁ。
結局、僕は五郊を殺した。
これで妖怪を殺すのは二度目だ。
あんなにしゅりの言外の提案を拒んでいたのに、そうと決めた僕の心に迷いはなかった。こうして僕はどんどんどんどん妖怪を殺すことに対しての罪悪感や震えがなくなっていくんだろうか?
いや、きっとなくなっていくんだろう。僕は精神異常者だから。
そんなことを考えながら佳奈のお母さんに頭を撫でられていると、怖い顔した佳奈が奥から廊下を走りながらやってきた。
「お、お母さんなにいってるのいきなり!?」
「あら佳奈。別に隠さなくてもいいのよ? お母さん明君なら婿養子大歓迎」
「だからなんで私と明くんがそういう関係にならなきゃいけないの!?明くん変態だしへたれだし朴念仁だしにぶいしファッションセンスないし勉強できないし、一人じゃ生きていけないんだよ!?」
「まって佳奈。僕にもう現実を叩きつけないで。僕このまま全力で身投げする勢いだから」
「あ、ごめん……」
佳奈の言葉の一つ一つが僕の胸に突き刺さった。僕っていいとこなにもないけどこれで大丈夫なのか……?
流石に佳奈も反省してくれたのか、申し訳なさそうな顔で謝ってくる。でも訂正がないところをみるとあれは全部佳奈の本音ということなんだろう。
「ほ、ほら明くん!学校いこ!学校!それじゃお母さん行ってきまーす!」
「はい、いってらっしゃい」
母親に手を振る佳奈に合わせて僕も軽く手を振る。佳奈のお母さんはお見送りのために手を振ってくれた。
角を曲がり、佳奈の自宅が見えなくなったのを確認して僕は佳奈に質問する。
「佳奈は昨日あれから何をしてたの?」
「私? えーっと……色々? 明くんは?」
「僕? 僕も色々かな」
「えー、なにそれ」
僕の答えを聞いて面白くなさそうな声をあげる佳奈。しょうがないだろ、色々と僕もあったんだから。主に姫条さんのことで。姫条さんのことで……。
「明くん? なんで顔を赤くしてるのかな?」
「へ!?い、いやあれは僕からしたんじゃなくて姫条さんがいきなり──」
「ふ〜ん……。昨日は姫条さんはまーた浮気してたんですか、そうですか」
「ああ、いや違うよ佳奈!?」
「昨日は私が誰に対して怒ったのか忘れてないでしょうね?」
「うぅ……」
思わず昨日の姫条さんとのキスを思い出して赤面する僕を佳奈が睨みつける。佳奈の怖さについ僕は姫条さんとのキスを暴露してしまったわけなんだけど……佳奈の機嫌は急降下。これは僕が迂闊だった。佳奈は昨日姫条さんの間違った記憶のせいでブチギレたんだから。
僕と佳奈の間を一気に険悪な雰囲気が包み込む。
ここは怖いけど僕のほうから話しかけるのが道理だよね?物凄く怖いけど……。
「ねぇ佳奈? やっぱり……昨日の姫条さんのことは怒ってる?」
「当たり前でしょ」
「だよね……。じゃぁさ佳奈。もし、もしもだよ? 姫条さんの記憶を誰かが弄ってたり、違う記憶に差し替えていて、それを知らなかった姫条さんが昨日あんなことを言っていたならどうする?」
自分で言っておいてなんだけど、こんな荒唐無稽な話誰が信じるんだろうか。通常の友達関係ならば笑っておしまいにするか頭を疑うか。はたまた相手を庇っていると思いまたあらたないざこざに発展すると思う。普通の友達関係ならば。
佳奈は僕の瞳をじっと見つめる。まるで僕がいま言ったことが嘘なのか真実なのか見定めているかのように僕はじっと見つめ続ける。長い長い緊張状態。ふと僕の額から汗が一筋地面に染みを落とす。その瞬間、佳奈はふっと笑みを零した。
「信じるよ明くんがそういうのなら」
佳奈は頷きながら僕にそう言ってくれた。
「張本人が言うのもなんだけど……本当にいいの?」
「まぁ嘘だったらそれなりに怒るし、それに──約束したでしょ?」
約束。それは佳奈と僕との間で交わされた一方的な約束。期間無期限の永久的な約束。
ずるいなぁ……ほんと。
「ありがと、佳奈」
「どういたしまして。でも茜さんが昨日のまんまだったときは明くんを踏みつけるからね」
「それってつまり──」
「顔を上に向けたら容赦しないわよ」
佳奈のパンツと僕の命。個人的には下着を取りたいけど……その場合先程から僕におんぶされている彼女が佳奈を殺すことになるから止めておこう。それにしてもこの子、いつまで寝てるつもりなんだ?
「でもまぁそんなことはもうないと思うけどね」
僕も佳奈もようやく生徒が大勢歩いてる通学路へと出る。そこからはもう何分と歩かなくていい。すぐに正門が見えて、おなじみの大きな螺旋階段、そして屋上。昨日、あそこでしゅりは五郊を殺したらしい。褒めて褒めてと言わんばかりに報告してきたからいやがおうにも覚えている。そして僕達は靴箱へと足を向けて歩き出す。
その途中、佳奈は違和感を覚えたのかしきりに周囲を見回していた。
「佳奈、なにしてるの?」
「へ? あ、いやなんでもないよ。ごめんごめん」
はっと我に返った佳奈は僕の横に並び直す。僕も佳奈も互いに学校指定の靴から上履きに履き替えて教室に向かう。
その途中でも佳奈は違和感を覚えるのかしきりに周囲を見回していた。
『お、片桐さんが俺のほうみたぜ!』
『ばっか、んなわけねえだろ』
『くっそー!それにしても楯梨の奴、毎日毎日片桐さんと登校かよ、羨ましい奴め……!』
『いつか寝込みを襲ってやる……!』
僕と佳奈が進むたびにそんな外野の声が聞こえてきた。
その声が聞こえてきた瞬間、佳奈の動きは完全に止まった。既に僕達は教室の目の前まできていたというのに、佳奈は僕の制服を引っ張り自身に手繰り寄せる。
「あ、明くん!?なんでこの学校おかしいよ!?昨日までと全然雰囲気が違うし──」
わたわたと慌てる佳奈。佳奈の反応はもっともだ。僕達は昨日まで学校から嫌われていたはずなのに、それが今日登校してみれば自分達に浴びせられる発言にまったく棘がないのだから焦る気持ちはよくわかる。僕も渦中の人じゃなかったら佳奈のような反応をするだろう。いや僕のことだ。きっと疑心暗鬼に陥ると思う。
そんな佳奈に僕はそっと人差し指を佳奈の唇に当て、ジェスチャーで何もいうなと訴えた。それになんとか頷く佳奈。僕はそのまま教室の扉を開けた。僕の席は教室の後ろ扉を開けたら窓際最後列の正面の席だ。その僕の席には既に先客が座っていた。そわそわと体を揺する姫条さん。僕は佳奈の背中をそっと押した。佳奈は僕に押されて渋々といった表情で姫条さんの元まで歩いていく。と、姫条さんも佳奈に気づいたようでこっちは物凄い勢いで佳奈の元まで走ってきた。
「佳奈ちゃん!本当にごめんなさい!わたし昨日佳奈ちゃんにひどいこと言ってしまって……本当にすみませんでした!」
そう姫条さんは開口一番に頭を下げた。
姫条さんのあまりの勢いに佳奈は戸惑いながらも頷いた。
「あ、うん……。私も怒鳴ってごめんね」
「いえわたしは怒鳴られてもしかたないことを言ったのでそれは──」
なおも頭を下げて謝罪を続ける姫条さんを指差しながら、佳奈は僕のほうに振り返る。僕も佳奈が何を言いたいのか理解しているので黙って笑顔で頷いて見せた。
「茜さん……私のこと覚えてるの?」
「はい!それはもう!一緒にお昼ご飯も食べましたし、体育も一緒にやりました!それに携帯の連絡先だってほら!ちゃんと登録してあります!」
ばっと携帯のディスプレイを見せる姫条さんに、佳奈の困惑はより一層深まっていった。
現在は昼休憩の時間であり、今日の僕達はちょっと自分を変えて屋上にまで足を伸ばして各々弁当を食べていた。
僕の目の前では佳奈と姫条さんが楽しそうにまた僕の話題で盛り上がっていた。どうして二人とも僕を玩具にしたがるんだ。
あれからの佳奈は多少困惑をしながらも持ち前の驚異的な順応力の高さをいかんなく発揮しクラスに溶け込んでいった。
現在の僕のクラスには僕や佳奈の悪口を言う人も、僕と佳奈だけの特別な世界が出来ることもなくなった。僕は相変わらずクラスメイトとの会話は少ないけど、佳奈は色んな女子と楽しそうに喋っている姿を見せた。とくに姫条さんとはよくお喋りしている。
実際のところ、僕もこの状況がどういう状況なのかいまいちよくわかっていない。
ただ──僕はこれとよく似た状況を中学校時代に体験したことがある。
「やっぱり……関係してるのかなぁ。今回のことも前のことも。僕達以外の存在が」
「そのとおりだよ、あきら」
「あ、しゅり。起きたんだ」
「うん。おなかすいたー。ポテトサラダちょーだい?」
今までずっと爆睡状態だったしゅりはようやく起きたかと思いきや、すぐさま僕の弁当にはいっているポテトサラダを催促しはじめた。
しゅりは僕の膝の上に座りながら話す。
「あのね、ようかいってあきらたちがおもうよりずーっとひとの心をまどわすんだよ? こんな箱庭のなかにいるんじゃ、そのこうかはすさまじいものになるんだよ?」
「うん、よくわかったよ。なんせあと少しあの状態のまま過ごしていたら精神的にきたかもしれない。けど僕も今回のことで再認識したよ。妖怪の恐ろしさを。そしてそんな妖怪を完膚なきまでに叩きのめすしゅりの強さも再認識した」
「ぽぽぽ。うむうむ!さいにんしきするがよい!まぁしゅりは格がちがうからね!」
自信満々なしゅりには申し訳ないけど、ポテトサラダを頬に食べさせるのはどうかと思うよ?
僕はしゅりの頭を撫でながら今回のことに想いを馳せる。
たった一人の幼馴染に出会って、五郊に喧嘩を売られて、僕の気づかないところでどんどんどんどん五郊は内部を食い破っていき学校というものを支配した。いや、僕達的にいえば学校の空気を『楯梨明を追い込め』という流れに変えたんだ。そして僕は見事その術中にはまり、僕のせいで佳奈にも姫条さんにも辛い思いをさせてしまった。
きっかけは多分僕が姫条さんと出会ったから。その瞬間、世界(学校)が変わったんだと思う。
これだけを列挙すると僕はあの時迷わずにしゅりに五郊を殺すようにお願いすればよかったと思う。でもそれをしなかったからこそ僕は姫条さん側の立場になって苦しみの一旦を知ることができたし、佳奈の優しさと温もりを骨に染み込むほど感じた。
まぁ……結果論に過ぎないんだけどね。
「あきら、もうすぎたことをかんがえてもしかたないよ。それよりもいまはしゅりをだっこしてあまえんぼうにさせることがだいじ!」
「はいはい」
ポテトサラダを食べ終えて、満足気に僕に語りかけるしゅりに僕は返事を返す。しゅりを抱っこして寝かしつけながらふと思う。
「ねぇしゅり? いまの学校の空気はどんな感じなのかな?」
昨日まで支配者として君臨していた五郊は既にいない。だとしたら、いまの学校の空気ってなんなんだろう?特定の誰かが操作していない空気ってなんなんだ?
「さぁ? しゅりはそんなの興味ないしなー。しゅりはあきらだけしかみてないよ!」
「ありがとうしゅり。僕もだよ」
「ねぇねぇ、じゃぁぎゃくにあきらはどうおもうの?」
「僕?そうだなぁ……」
そう言われると僕もぱっとは思いつかない。大体、そんなもの意識しながら動いたことも生活したこともないし、この空気だって絶対皆が皆色んな想いを抱きながら作っているものだろうし。
意外にも難題であるこの問題について考えていると、さっきまで仲睦まじく会話していた佳奈と姫条さんが僕に話しのネタを振ってきた。
「ねぇ明くん。明日から週末でしょ? それでこの前、日曜に洋服を買いに行こうって話ししたけど、茜さんも一緒に行っていいよね?」
「え? 姫条さんも? 僕は全然かまわないけど……」
「オッケー。茜さん期待しててね、明くんの常軌を逸脱したファッションセンスに」
だから僕のファッションセンスは別におかしくもなんともないんだって。
そう言おうとしたけども、あまりに二人がまた楽しそうにお喋りをはじめたので飲み込んだ。
ふむ……いまの佳奈と姫条さんとの会話で、今日を支配している学校の空気が分かった気がする。
僕はまたしゅりに話しかける。既にしゅりは眠りの体勢に入っていたけども、なんとか起きて僕の話を聞く体勢に入ってくれた。
「なんとなくいまの学校の空気がわかったよ」
「ふーん。それでどんなくうき?」
「『明日からの週末が楽しみだなぁ』って空気かな」
僕らが進むその道に、新しい風が吹いた瞬間だった。