十三話
自分の中の世界が他者に犯されている感覚に陥る。まるで体の内側を蹂躙されているような刺激は断続的に続き、そのたびに叫びだしたい衝動に駆られていく。
「姫条さん大丈夫?」
「は、はい……。大丈夫です」
そういって私の顔を覗き込みながら聞いてきたのは同じクラス委員会の五郊君。五郊君は返事するわたしを見つめながら、
「そんなに顔色が悪いのに大丈夫なんて言われてもね。少し休んだらどう? 生徒会長には僕から伝えるからさ」
わたしが持っていた本を自分の本に重ね、そのまま別の場所で作業をしていた生徒会長に駆け寄った。
二・三言葉を交わした五郊君はすぐさまわたしの所に戻ってきて、
「気分がすぐれないのはしかたがないから、休憩してていいってさ。ほら、そこのテーブルで休んでたら?」
「すいません……ありがとうございます」
「手をかそうか?」
「いえ、それは本当に大丈夫ですから」
視界は良好、吐き気もない。ただ、一分おきに形容しがたい刺激に襲われるだけ。
わたしは椅子に座りながらなんとかその刺激に耐える。
「(明くんや佳奈さんといるときはなんともなかったはずなのに……いったいどうしたんでしょうか……?)」
自分自身、何が原因なのかわからない。五限目のバレーをして六限目の移動教室で化学の実験をし、急遽図書室の書庫整理ということで駆り出されていまに至るわけですが……その間なにも事故にあってないしバレーで怪我をしたわけでもない。
まったく原因が思い当たらないまま、いきなりのこの刺激。
「明君……」
ついつい好きな人の名前を呼んでしまいます。
ふふっおかしなものですね。明くんのことを思うとちょっとだけ刺激が和らいだ気がします。
でも……明君はわたしのことを何も覚えていないんですよね。
あの時のことも、あの時のことも、あの時のことも、あの時のことも、みーんな忘れちゃったんですよね。
「それでも……明君に会えた、それだけで本当に嬉しいです」
もう会えないと思っていた人が、また私の前に現れた。
小学校・中学校と同じ時間を過ごすことはできませんでしたが……それでもこれからの高校生活を一緒に過ごすことができると思うとわくわくが止まりません。
「でも本当は……記憶の片隅でもいいからわたしが残っていてほしかったです」
公園での問いに後悔していると答えてほしかったです。
わがままだってわかっていますし、明君が好きで忘れてるわけじゃないこともわかっています。
でも……それでもなんだかわたしの知ってる明君がいなくなった気がして寂しいです。
わたしの知らない明君を知っている佳奈さんにもちょっと嫉妬しちゃいます。本当に恋人みたいな付き合い方をしていて……本当ならその場所にはわたしがいる予定だったのに、そう思ってしまいます。
佳奈さんはとてもいい人で可愛くて勉強もできて完璧で──だからこそちょっと嫉妬しちゃいます。そしてそんな自分がちょっと嫌になってしまいます。
「明君の浮気者……」
あのとき、してくれるってしたのに。
「へー、楯梨君ってそんなことしてるんだ。結構根が真面目そうな人なのにねぇ」
「わぁっ!?」
「ごめんごめん驚かせて。調子はどう? 姫条さん?」
ハンカチで額を拭いながら五郊君がそう聞いてきました。ふと周囲に視線を向けると、既に書庫の整理は終わっており、各々帰り支度をしている最中でした。
「もう会長が帰っていいんだって。後は生徒会でやるみたいだから」
会長のほうをみると確かに手を振っている。きっとわたしではなく五郊君に振っているのだと思いますが。
「暗くなる前に帰ろうか」
まるで言い聞かせるように言う五郊君に笑顔を向けてわたしは頷いた。
☆
翌日の天気は僕の心を映し出したかのように鬱々とした雨模様だった。
昨日佳奈と一緒に帰った後、僕は夜の20:00に姫条さんに電話をかけたけど繋がらなかった。そのことが僕の心を乱す。
五郊に指摘されてからの僕はずっと言われたことばかり考えていた。
僕は自ら望んで記憶を失ったわけではない。でもそんなことは姫条さんには関係ないことだ。僕に事情があるように、彼女にもまた事情がある。
僕が記憶を失っている間も、姫条さんは記憶の中で僕と遊んでいたのだ。
そんな彼女に僕は何をしてきた?
「僕は……最低な人間だ」
自分がした数々の行いを思い返しているうちに自然とその言葉がでてきた。
『明―? 明起きてるー?』
一階から僕の名を呼ぶ声が聞こえてくる。僕はそれに返事をしながらしゅりを起こす。
「にゃーにゃー……。しゅりはまだねむいにゃー」
猫になりきりごろごろと声を鳴らして僕に擦り寄るしゅり。しゅりを抱っこしながら僕は机に置いたままにしていた携帯電話を手に取る。
依然として、着信アリのランプはついていないままだった。
「かんがえてもしかたないよあきら。それよりがっこうにいってちょくせつかくにんしたほうがはやいとおもうよ?」
「うん、そうだね。そのほうがよっぽど早いね」
しゅりの言うとおりだ。ここでうじうじしてても始まらない。まずは学校に行って直接姫条さんとコンタクトを取ろう。そして謝ろう。その上で、僕が昨日一晩考えたことを姫条さんに話してみよう。
殴られて罵倒されて嫌われる覚悟で話そう。
僕はそう心に決めて登校の準備を始めた。
朝食を済ませからの登校。今日は傘をさして濡れないようにしゅりを抱っこしたままでの登校となった。僕の隣には相も変わらず佳奈がいて、可愛らしい猫のデフォルメ顔が描かれている傘をさしている。
僕の視線に気づいた佳奈が頬を膨らませる。
「もー明くんそんなに見るの禁止!」
「僕は別に何もいってないし、見るだけならいいじゃん」
「どうせ高校生にもなってこんなネコのデフォルメかよとか思ってるんでしょ。いいじゃん可愛いんだから」
「僕もそう思う。それに凄く似合ってるよ」
「……ほんと?」
「うん。その傘凄く可愛いし、それをさしてる佳奈も可愛いよ」
「なっ!?ば、ばか!」
僕の肩を叩いてくる佳奈。可愛いのは本当なんだから真実を言ったまでなんだけど……。
「明くん……その……ありがと」
急にしおらしくなってお礼を言ってくる佳奈に僕の心はきゅんきゅんしている。指を絡める佳奈は物凄く可愛い。
こうして僕の登校時間は幸せいっぱいのものとなった。
☆
嫉妬と嫌悪の視線を受けつつ僕と佳奈は喧騒の中を急ぐ。お互いに会話は一切しない、その代わり佳奈は僕の制服の裾を摘まんでくれる。僕が離れないように、最小限の摘みをしてくれる。
そんなこともありながら、僕と佳奈は無事に教室へとたどり着く。いまや僕は学校一の嫌われ者、クラスメイトだって例外じゃない。この世界が空気で支配されていることは僕も佳奈も体験済みだ。
ただ、そんな中にも抗ってくれる人はいた。
姫条茜。その人だ。
学校のアイドルであり現代に生きる天使とも称される彼女が僕を庇ってくれたから、僕はまだやっていける。彼女が取り持ってくれてるからまだクラスの糸が繋がっている。
僕のために僕を必死に庇ってくれた。僕のために必死に損な役回りをしてくれた。
僕のことを殴り飛ばしたいだろうに、僕に笑顔を見せてくれた。
だから僕は彼女に言わなければいけない。
教室中にざわめきたつ。いつもの彼女の光景だ。彼女が教室に入るとそれだけで空気が変わり、身が引き締まる。佳奈やしゅりとはまた違う、独特な雰囲気を纏わせている人だ。
姫条さんは笑顔を浮かべながらクラスメイトに挨拶する。
挨拶されたクラスメイトは歓喜の声をあげ、感極まって咽び泣く。
僕は一人、じっと外からそれを見ていた。僕はあの輪の中には入れない。入ることを許されない。それがいまのこの世界クラスのルールだ。
だから僕はじっと待つ。彼女が独りになる瞬間を。
彼女は鞄から教科書を机に移し替えると、群がるクラスメイトに謝りながら席を立つ。向かう席は僕の机。僕の机には佳奈が座っている。佳奈の席は姫条さんの前なのでクラスメイトがうるさいらしい。まぁ……確かに毎日毎日あれだとうるさいよね。あのどんな時でも笑顔を張り付かせることができる佳奈が席を明け渡すほどか。
姫条さんが僕達の前に笑顔で駆け寄る。
そして──
「おはようございます、片桐さん。いつもいつもわたしのせいで自分の席に座ることができなくて申し訳ありません」
そう佳奈に向かって深々と頭を下げた。
「……え?」
佳奈の口から思わずそんな声が漏れる。僕なんて驚きすぎて声すら出なかった。
「ちょ、ちょっと茜さん? いきなりどうしたの? 他人行儀みたいに名字呼びなんてして。昨日みたいに佳奈さん、いや佳奈ちゃんでいいんだよ?」
「あ、そうなんですか? わかりました佳奈ちゃん」
オンプマークでも飛んできそうな弾む声。どうしてだろう……僕の頭の中でこれでもかというほどの警鐘が大音量で鳴り響いている。
佳奈も困惑しているのか、ものすごく目が泳ぎながらテンパっている。姫条さんのいきなりの態度の豹変に驚く僕達に姫条さんは今学期始まって以来の最大級の弾丸を撃ち込んできた。
「よかったぁ……わたし佳奈ちゃんと話すのこれが初めてなのでものすごく緊張してたんです。ふふっ、優しい人でよかった」
今度こそ僕と佳奈の思考は混乱した。
☆
「いったい姫条さんに何があったの……?」
昼休み、弁当に手を付けながら佳奈は沈痛な面持ちで呟く。佳奈と姫条さんは昨日あれだけ仲がよさそうに話してたし、体育だってずっと一緒にいたらしい。それに僕の知る限りでは移動教室での授業だって二人は仲よさそうに勉強していた。
そんな思い出が今日の姫条さんからはすっかりなくなっていた。
あの後、業を煮やした佳奈が昨日のことについて微笑みを張り付かせて散々話したが、今度は姫条さんがひどく混乱する番となった。
姫条さんは困惑しながらもハッキリと覚えてないと言っていた。
昨日の思い出がまったく共有できていないのだ。
それはまるで、昨日までの僕と彼女を見ているようだった。
彼女が僕の立場で、僕が彼女の立場になって。
「姫条さんは僕に会ってからずっと……こんな想いを胸に抱いて過ごしてたのか」
当事者側に立って初めてわかるこの気持ち。僕と彼女はほんの数日の付き合いしかないはずなのに……。それでも……。
「あの……ご一緒してもいいですか?」
「え?」
聞き覚えのあるその声に僕は思わず振り向いた。なんたって現在僕と佳奈の中で渦中の人となっている姫条さんが弁当をもってこちらを探るようにそう言ってきたのだから。
「え、あ、その……どうぞ」
「はい、失礼します」
そう返事をした姫条さんは僕と佳奈が使っている机とは別の机を手繰り寄せ、その机に弁当を置く。そして椅子を両手で抱えおろしすとんと席についた。姫条さんが昨日と変わらないピンク色の可愛らしい弁当箱を開ける。
「いただきます」
両手を合わせた姫条さんは気品ある食べ方で弁当を食べていく。まるで昨日までの姫条さんとは別人のようだ。いや違う。僕達との思い出がなくなった姫条さんは別人なのだ。もっと素の姫条さんは天然で可愛らしい。いまの姫条さんは接客業のマニュアルをこなすように僕達に話しかけている。
佳奈はそれに笑顔を張り付かせて答える。一方の僕はというとどんな顔をすればいいのかわからずただただ笑顔を浮かべる努力をしていた。
そんな僕と佳奈をみて姫条さんは嬉しそうにこういった。
「よかった、やっぱり佳奈ちゃんと楯梨君っていい人なんですね。わたしの予想通り、ただ単にクラスに馴染めていないだけだったんですよね」
「えっと……どういうこと?」
佳奈の問いに姫条さんはハッとした表情を作り、次いで周囲を見回して体を丸くしながら僕達にジェスチャーで耳を貸すように仕向ける。僕も佳奈もそれに従う。
姫条さんは小さな小さな声量でこう言った。
「ものすごく言いにくいのですが……お二人ともクラスで孤立気味でして。それで同じクラス委員の五郊君と話して、きっとお二人ともクラスに馴染めてないのではという結論に達したんです。なのでわたしを通して少しでも早くクラスに馴染めることができたらと──」
「冗談じゃないッ!!」
姫条さんが言い終わるよりも先に佳奈はそういって机を両手で叩きながら椅子から立ち上がった。その反動で椅子は倒れ、教室中に大きな音が広がり教室内だけではなく廊下にいた人達からも視線を一斉に浴びる結果となった。それでも佳奈は姫条さんに捲し立てるように喋る。僕よりも先に佳奈のほうが臨界点に達したようだ。
「いい加減にしてよ!昨日まで明君明君言ってた癖に今日は手のひら返しでそっちに行くわけ!?いきなり明くんのことを楯梨君呼ばわりして、わたしとは友達じゃないですけどって顔して──見損なったよ姫条さんッ!私が出来ないことをしてくれて、明くんのために損な役回りしてくれて、それでも一生懸命わたし達のことを守ってくれて!」
「ま、待ってください佳奈ちゃん? あの意味がよくわからないのですが──」
「ええそうよね!そう言ったほうが都合がいいもんね!昨日まで仲良く手をつないで、時間がきたらその手を離す!クラスの皆も味方だから、誰もあなたを非難する人なんていないものね!この最低女ッ!」
「ひ、ひどいです……」
「ひどい? ひどいのはそっちでしょう!?」
佳奈の口は閉じようとしない。マシンガンのように言葉を発射する。日頃のたまりにたまった感情が一気に爆発したようなそんな印象を僕はうけとった。
一方の姫条さんの目には涙さえもにじんでいる。姫条さんの反応は本当に自分に心当たりのないことをマシンガンのように言われ批難されている女の子の反応だった。
「何が、『寄って集って数の暴力で人を虐めて楽しいですかッ!見損ないましたッ!』ですって? 見損なったのはこっちよ!大体ね、幼馴染とかなんとか言ってるけど所詮小学校に入学する前までなんでしょ? 明くんが小学校や中学校でどんな目に合ってたかもしらないのに一丁前に幼馴染面して──」
「佳奈、もういいよ。キレた佳奈は怖いんだから、それくらいにしておかないと姫条さん泣いちゃうよ?」
「ほっといて明くんッ!」
肩に置いた僕の手を振り払う佳奈、僕はそんな佳奈を前からそっとだけど強くぎゅっと抱きしめた。
「大丈夫、僕は大丈夫だから」
僕に抱きしめられた佳奈は借りてきた猫のように大人しくなった。僕はいつもしゅりにするように佳奈の背中をとんとんとあやした。
「ごめんね、そしてありがとう佳奈。いつもいつも僕のために怒ってくれて。僕のためにこんな大勢を敵に回して」
佳奈の体から興奮していた空気が四散する。すっと体から余分な力が抜けていくのがわかる。
それを確認して離す僕に、佳奈は小さな声で
「……帰る」
そう言った。
「送っていくよ」
「……うん」
机にかけていた鞄を手に取り、反対側の手で佳奈が自身の机から取ってきた鞄をもつ。佳奈が歩くその先はモーゼの十戒のように中央が割れる。全員が目の当たりにしたからだろう、本気でキレる姫条さんに次ぐ学校のアイドルの姿を。
教室から廊下へと移動する。すると正面からは一人の男子生徒がやってきた。手には日直日誌をもっている。その男子生徒は中央を歩く佳奈に気後れすることなく話しかける。
「いまからどこいくの? 午後の授業がはじまるよ」
「……」
佳奈は無言でその横を通り抜ける。……ここは僕が説明しておくか。
「男子クラス委員。僕と佳奈は早退することにしたよ。キミもそのほうが都合がいいだろ?クラスの輪を乱す問題児の相手をしなくていいんだから。それにしても今頃日直日誌もってきてんの?」
これまでは僕だけがクラスの輪を乱す問題児という位置づけだった。佳奈は精々、そんな僕に構う相手ってくらいだったろうけど……今回のことで佳奈も完全に僕と同類になっただろう。
五郊はそんな僕をみて、爽やかな笑顔でこういった。
「そっか、残念だなぁ。でもしょうがないね。体調でも悪いのかい? それと僕はいましがた日直日誌の感想を職員室で念を押されてきたんだよ。ほとんど一言で終わらす人が多いから」
「まぁ体調というか気分がね。ということで僕と佳奈は早退するよ。あ、男子クラス委員。姫条さんに伝えておいてくれないかな? あなたの着信履歴にある知らない番号は僕のだから消しておいてってね」
「うんわかった、そうするよ!」
その時丁度チャイムが鳴った。廊下で佳奈をみていた連中も慌てて教室の中へと入っていく。自身の教室から遠い場所にいた生徒は廊下を走らないという標語を無視した走りっぷりを見せてくれる。
僕も全てを無視して突き進む佳奈を見失わないように標語を無視して走ることにした。
☆
明と佳奈が帰った教室はいまだにざわつく雰囲気で支配されていた。そしてその渦中にいるのは勿論姫条茜。女子クラス委員にして、学校のアイドルだ。そしてそんな姫条の周りに集まった面々は心配そうな顔でかわるがわるに声をかける。
「大丈夫姫条さん?」
「ほんと許せないよね、片桐さん。ちょっと可愛いからって調子にのってない?」
「あいつら絶対できてるぜ。じゃないと俺の片桐さんがあんな奴を庇うわけねぇよ」
「お前片桐さん狙ってるならやめとけ。お前までクラスのハブられ者になるぞ」
「いやいや大丈夫だって。楯梨と付き合ってるからあんなになってるだけで、俺と付き合ったらそうはならねえよ」
クラス中が佳奈と明の話題でもちきりな中、姫条は一人自分の世界に入っていた。
姫条の胸に言いようのないざわめきが踊り狂う。不安や恐怖とは違う、かといって怒りや憎しみともつかないこの感情を姫条はどう扱っていいのかわからないでいた。
あえてこの感情を例えるならば喪失。
自分が肌身離さずもっていたものを失くしてしまったときのようだ。
けれど姫条はそれが何なのかが分からない。今日の宿題はやってきたし女の子御用達のポーチだってもってきてある。委員会で使う資料だって鞄の中に入ってる。
「(……約束だって今日はしてないはずですし)」
約束、その単語を思い浮かべた瞬間、脳裏に一つの光景がよぎった。
遠い遠い昔の自分。そして目の前には見ず知らずの男の子。
自分はその男に抱きつきながら小さく何かを呟いた。
自分が知らない自分の記憶が姫条の頭を駆け巡った瞬間だった。
「はいはい皆、もう午後の授業始まるから席につかなきゃね」
パンパンと手と手を合わせて叩く一人の男子生徒の声。男子クラス委員で皆の憧れ五郊隼だ。五郊は素早くクラスの皆を着席させると、自身は姫条の机に近づく。
「姫条さん、さっき楯梨君と片桐さんに会ったけど二人とも気分がすぐれないから早退するんだってさ」
「そうですか……それは残念です」
本当に心底残念そうな顔をする姫条。だがその他のクラスメイトは誰もそんな表情を浮かべなかった。それよりも二人がクラスからいなくなったことに対してガッツポーズをする者さえいた。そんなクラスメイトを諌めながら五郊は姫条に話しかける。
「それと楯梨君が言ってたんだけど、楯梨君昨日姫条さんに電話したんだって。それで楯梨君は他の人と間違えてずっと電話してたみたいだからその番号は消してほしいだってさ」
「え? 番号ですか?」
姫条はポケットに忍ばせていた携帯を開く。確かにそこには何件もの着信アリと名前が記されていた。
着信アリ 明くん
「どうして……下の名前で?」
どうして楯梨君の名前が下の名前で入っているのだろう?姫条は疑問符を浮かべた。そんな姫条に五郊が答える。
「きっと楯梨君が無理矢理入れたんじゃないかな? ほら、姫条さんって断れないタイプの人間でしょ? 女子クラス委員だって僕のために引き受けてくれたし。本当はしたくなかったはずなのにごめんね」
そう言われて姫条は携帯のディスプレイに視線を落とす。そういわれるとそうだったかもしれない。姫条は五郊の言い分に大きく頷き──首をひねった。
「(あれ……? 本当にそうでしたっけ?)」
自分の中の自分が問う。
楯梨君の表示が名前になっているのは本当に無理矢理だったの?
わたしが女子のクラス委員を引き受けたのは五郊君のため?
答えがでない。わからない。この問いに解答がついていない。
頭の中では五郊君の言っていることが全て正しいのだと理解している。だけどそんな理解を否定している心があった。
相反する理解と想い、その二つに囚われているうちに教壇には担任が立っていた。
「はいそれじゃ午後の授業をはじめるぞー。楯梨と片桐は……まぁほっといてやれ。高校は義務教育じゃないんだ。教師もそこまで面倒みきれんよ。まぁいずれ退学になるかもしれんがな!」
イキイキとした表情で明と佳奈をおちょくる担任に、教室中から笑いが起こる。女子も男子も関係なく手を叩いて笑う。そんな状況の中、姫条は一人立ち上がり、
「あ、あの!そういうのってあまりよくないと思います!当事者がいないからってバカにしたり悪口をいって陥れるのは……卑怯じゃないですか。そんな──」
寄って集って数の暴力で人を虐めて楽しいですか?
姫条の口からは自然とその言葉が出ていた。それは奇しくも先程自分に怒り怒鳴った片桐佳奈が姫条に放った言葉。その言葉を姫条はこの場でごく自然に使っていた。姫条はそんな自分に驚いた。その言葉はまるで自分の一部のように感じられたからだ。
教室全体が姫条を見つめる。先程まで手を叩いて笑っていた者達が一斉に彼女を見つめる。
姫条はそんなクラスに一歩後退した。見えない何かに恐れをなした。
「確かに姫条さんの言うとおりだよ。楯梨君も片桐さんもクラスの一員だ。そんなふうに扱うのは問題がある。先生も気を付けてください」
「お、おう……すまんな」
声をあげたのは五郊隼だった。五郊の言葉は教室中に漂っていた見えない何かを消しとばし、二人に対しておよそ教育者と思えないような反応を見せる教師を黙らせる。
「そ、それじゃもう授業を始めるかな!はい、きりーつ!礼!じゃぁ今日も頑張るぞー!あ、その前にちょっとトイレに……」
教師は早々に号令の挨拶を済ませるとそう言った後すぐさま教室を出て行った。まるで敗北を期した兵士が逃げる様を再現したかのようである。
教師がいなくなった教室はまたもや活気に満ちてきた。そんな中姫条は一人席で深くため息を吐く。
「お疲れ様姫条さん。大丈夫?」
「あ、五郊君。はい、なんともないですよ」
「そう? それならよかった。それにしても驚いた。あの場面でよく声をあげられたよね。僕なら無理だよ、尊敬しちゃう」
「そ、そうですか? わたしはただ、しなきゃいけないって衝動に駆られてそれを行動したまでなんですけど……」
「へぇ……えらいね。でもまぁあれは姫条さんだからこそできる芸当かな? 僕や他のクラスの皆がしたんじゃ逆に反感を買っちゃうからね。ほら、女神様の導きによって間違いを犯したことを認めた皆が謝りにきたよ」
五郊が指さす方向に、申し訳なさそうな顔をして姫条に頭を下げているクラスメイト。
「ごめんね姫条さん……。ちょっと言い過ぎちゃって……」
「俺も悪かったよ。あんな言い方したり、クラスメイトが早退したのに拍手するなんてみっともないよな」
「あぁ確かにな」
「間違いを正してくれてありがとう」
口々に姫条にお礼を述べるクラスメイト。
「いやほんと素晴らしいね。僕達のクラスは。間違いを正すことのできる人物と、その人物の教えを正しいと信じることができる人。やっぱり姫条さんがクラス委員になってくれて助かったよ。僕一人じゃこんなことできないからね」
クラスが一つに纏まる中、姫条だけがこの些細な違和感を感じ取っていた。このクラスに蔓延する淀んだ空気を敏感に感じ取っていた。
それは自身の直感がもたらすものなのか、それとも自分の中に存在する防衛反応が動いているのか、それはさだかではないが確かに姫条はこの空間におかしさを感じていた。
「どうしたの姫条さん?」
その空間に存在している五郊が姫条に話しかける。姫条は悩んだ。自分がいま思っていることを同じクラス委員である五郊に相談するべきか。
「(でも……楯梨君と片桐さんの件も二人で相談して決めたのですから……)」
五郊は自分と同じクラス委員。それでいてクラスだけではなく学校内の人気者で女子の的、男子の憧れの存在だ。そんな五郊ならばきっといい案を示してくれるだろう。
そう思い姫条は口を開く──が
「(……あれ? 声がでない……)」
姫条の声は空気を震わすことができず、波に乗り音となることはなかった。周囲からは口をぱくぱくさせてまるで金魚が餌を恵んでもらうときのようだと思われただろう。しかし五郊だけはそんな姫条をみて、耳元でこうささやいた。
「相談ごとかな? それなら委員会が終わった放課後にしようか?」
自分が何をしようとしたのかわかってもらえた嬉しさに首を縦に振って応える姫条。
トイレから戻ってきた担任が教室に入ってくる。それと同時に先程まで姫条の周囲にいたクラスメイトは各々着席した。それは五郊も同じ。姫条にウインクした後に五郊も自分の席へと座る。
姫条には背を向けて決して見えなかったであろうが、五郊は底意地の悪い笑みを浮かべ確かに舌なめずりをしていた。