一話



 ジリリリリリリリッ!

「ん……んぅ」

 けたたましいベルの音で僕は強制的に夢の世界から現実に戻された。ベッドのそばに置いていた目覚ましから鳴るこの音にはいつまでも慣れないものだ。

「慣れたら慣れたで学校に遅刻するから、これはこれでいいのかもしれないなぁ」

 上半身を起こしカーテンをあける。朝の優しい光を浴びながら少しの間、何も考えずにぼーっとする。この時間が一番好きだ。出来ればずっとこのままベッドでぼーっとしていたいくらいだ。

 僕がそんなことを考えていても時間は必ず過ぎていく。このまま頭をからっぽにしていると、時間になっても一階におりてこない僕を母さんが呼ぶんだろうな。それまでこのまま惰眠を貪っておくというのもありかもしれないが……そんなくだらないことで彼女を怒らせたくないから止めておこう。

 ぽぽぽと笑う彼女を怒らせることはその者の死を意味するのだから。

「でも……こんな姿を見てる限りそんなことはあんまり想像できないんだよなぁ」

 上げていた目線を下におろす。

 上半身を起こした僕の膝には、ワンピースを着た推定五歳児の少女が気持ちよさそうに眠っていた。

「んっ……むぅ……はむっ!」

「あいてッ!? こ、こらしゅり! いつまで寝てるんだ! 早く起きろって!」

 完璧に寝ぼけている彼女を僕は抱きかかえ揺り起こす。このまま彼女の好きにさせていたら僕の手は食い千切られ、白いシーツは瞬く間に赤いシーツへと変わってしまう。それだけはなんとしてでも避けなければならない。

 僕の必死なモーニングコールがようやく届いた彼女は、寝ぼけ眼な瞳を向けながら僕に話しかけてくる。

「おはようあきら……。いまねー……しゅりとあきらがはじめて会った日のできごとを夢でみていたよー」

「本当? 奇遇だね、僕もしゅりと全く同じ夢をみていたんだ」

 違う点があるとすれば、僕視点かしゅり視点かの違いかな。

 僕の答えを聞いたしゅりは、照れたようにえへへと笑いながらそのまま体に似合わない強い力で僕をベッドに押し倒す。

「ねぇ、あきら? しゅりにおはようのチューしたくない?」

「この状況で僕が断ったらどうする?」

「べつに〜。 しゅりがきょうはずっとあきらのとなりで泣いてるだけだからいいよ?」

 意地悪そうな笑みを浮かべるしゅり。しゅりは僕が断れないことを分かっていながら、あえてこんな質問をするのだから本当にたちが悪い。ほら、また僕のほうをみて笑うんだから。

 早くしないと母さんが僕を呼びにくるし、しゅりの泣き顔を一日中見ているとなると気も滅入ってくる。ここは素直にしゅりの提案を受け入れるとしよう。

 僕は降参の意思表示として両手を上げる。

 それをみて、しゅりはにんまりと僕の唇にキスをする。

 僕としゅりが出会ってから毎日している習慣を、今日もこなすこととなった。

 これが僕たちの日常だ。

      ☆

「おはよう明あきら、今日はいつもより遅かったわね」

「おはよう母さん。 う〜んそうかなぁ? 普段とあまり変わらない時間だと思うけど?」

「昨日より二分も遅かったじゃないの」

「二分くらい許してよ……」

 ロングヘアーをポニーテールで纏め上げてる僕の母さんは、息子である僕がいうのもなんだけど他の同年代の母親と比べるとかなり若く見える。実年齢に比べ、どこか幼なさを残す顔立ちと雰囲気がそれをより一層強くしているのかもしれない。買い物に行けば姉弟に間違えられることもしばしばある。母さんもそれが嬉しいのか、買い物に行くときは女子高生や女子大生が着るような服を着込んでいく。それでもそれを着こなしているのが母さんの凄いところだ。

 僕としても鼻が高いし、僕も母さんのことは好きだから、それはそれでいいんだけど……。

「また消えちゃったのかと思ったのよ」

「ご、ごめんごめん! 明日から気をつけるからさ!」

「まぁ……可愛い息子のことを信じましょうか」

 とにかく母さんは僕のことを病的なくらいに固執している。それ以外のことは世間一般の人と変わらないというのに。

 そして何故ここまで母さんが僕のことについて病的になるのかも分かる。

 僕が祖父母の家であの開かずの間に入ってしまったからだ。

 だからこそ、母さんは僕のことになると病的になる。

 自分の息子がいつパッタリ死ぬか分からないんだから気が気じゃないよな。 親としては。

 でも──

「あきら! あきら! きょうの朝はポテトサラダがある! しゅりこれがいい!」

「ポテトサラダ以外も食べようよ、しゅり」

 魅入られた相手がこれじゃ、僕の死はまだまだ先のようかな。

 よだれを垂らしながら興奮気味に喋る姿に思わずため息を吐きつつ答える。

 しゅりのよだれを手で拭いつつ席に座る。

「そこにいるの?」

 席に着いた僕にお茶を差し出しながら、母さんはそう優しく聞いてきた。母さんが誰のことをさしているのかはすぐに理解した。だから僕も軽い調子で「いるよ」と返事をする。もう何年も行っている確認作業だ。流石にこの年になると緊張なんてなくなるもんだよ。

 僕の答えを受けた母さんは、僕の隣に視線をやって笑顔で優しく話しかける。

「おはようしゅりちゃん」

 デフォルメのうさぎが描かれている可愛らしいコップにお茶を入れながら話しかける母さん。

「はいどうぞ」

 母さんは僕の隣にそっと差し出した。その目の前にしゅりが座っている。母さんには当然ながらしゅりは見えない。しゅりのことを見えるのは魅入られた本人である僕だけだ。

 だから母さんからはしゅりが何しようと見えないわけだ。

 コップを渡し終えた母さんは自分も席に座りながら話しかけてくる。

「そういえば今日から二年生になるわね。今年こそはお友達出来るといいわねぇー」

「母さん、僕にだって友達の一人や二人いるから」

「え? 二人もいたの?」

「……一人だけです」

 少しくらい見栄を張らせてほしい。現役高校生で友達が一人しかいない現実から目を背けさせてほしい。

 思わず視線をあらぬ方向に動かした僕に母さんは追い打ちとばかり話しかけてくる。

「それにそのお友達だって、佳奈ちゃんでしょ? 佳奈ちゃんは中学校からのお友達じゃない」

「でも一緒の高校に通ってるんだから人数には含ませていいはずだよ。それに僕は世間的に考えて友達は少ないと思うけど、コミュニケーション能力はあるほうだから毎日の学校生活において困ってることなんて一つもないよ」

 この話は終わりとばかりにポテトサラダをつまんでぱくり。マヨネーズと玉子を混ぜ合わせたジャガイモと、きゅうりのしゃきしゃきとした歯ごたえが口の中を満たす。

「あーっ!? それしゅりのー! あきらはたべちゃだめー!」

 隣でしゅりがぽかぽかとパンチを繰り出すのを横目に、僕は母さんのポテトサラダを食べ続ける。うん、しゅりが惚れるのも納得のおいしさだ。相変わらず母さんのポテトサラダは絶品だな。

 しばし僕と母さんの間で当たり障りのない日常会話を繰り広げる。少なくとも、母さんにとっては僕と二人だけの楽しい会話。

「おぉー。ひこうきがまた空をとんでる。鉄がうごくってふしぎだなぁー」

 僕と母さんが話をしている横で、ニュースを見ていたしゅりはそう呟いた。

 しゅりのコメントを聞きながら会話をしていると携帯からアラームが鳴った。毎日同じ時間に鳴るように設定してある登校用アラームだ。

「あっ、母さん僕そろそろ学校に行かないと!」

 これが鳴ったら僕が学校に行く合図。逆にいうとこれが鳴らない限り僕は登校する機会をうまく作ることが出来ない。

「お〜! 学校にいくじかんだね。きょうもいちにちがんばろー!」

 隣で呑気に拳を上げるキミ。キミのせいでいまの僕の現状があるんだからちょっとは考えてほしいんだけど。

 そう思いをこめてしゅりのほうを見るが、彼女は少女特有の可愛らしい笑みでこちらに微笑むだけであった。流石に長い間一日中付きまとわれていればこういったとき彼女は何を考えているのかわかってくる。僕もちゃんと理解している、理解しているさ。

 化け物相手に人間の感情論なんて何の役にも立たないということくらい。

            ☆

 僕にとって彼女は特別な存在であり、彼女もまた僕を特別な存在だと思っている。互いが互いに依存しあっている共依存の関係。それが僕たちだ。

 幼少期、まだ僕がこの大きな都市に引っ越してくる前に、僕は小さな小さな村にいた。車なんて農業用車くらいしか通らないし、近くに大型のスーパーやショッピングセンターなんて存在しないとても辺鄙へんぴな場所だったが、自然豊かな風景が広がり、春は桜の元で村人皆が集まり大花見、夏は小川で水遊びに小さな屋台を囲みながらの縁日。秋は山の恵みを堪能し、冬は凍える寒さに身を縮こませながら自然の脅威に恐怖しまた雪の結晶に目を輝かせる。そういった一年中の行事を楽しみながら日々を過ごしていた。まぁ全部母さんが教えてくれたことなんだけどね。

 だが、それも僕が彼女と会うまでの話である。

 彼女と出会ってから、僕は幼少期の頃の記憶をうまく思い出せないでいた。思い出そうとすると霞がかったような、靄で記憶を隠されたような、例えるならカメラのレンズをべたべたと素手で触られたような感覚が僕を襲ってくる。なんか気味が悪いというか気分が悪いというか。そんな僕がこうして生きているのは彼女のおかげだと思う。それに記憶に関してはしゅりも少しは教えてくれるし、僕もおぼろげながらも記憶にある。彼女と出会った場所も覚えているし、そのときの記憶はある。僕個人としては何も問題はない。

 僕がそんなことを考えていると隣にいた彼女が僕の制服の裾を摘まんで引っ張る。

「こらー!あきらー!しゅりの話ちゃんときいてたー!?」

「え? へ? 話? いったいなんのこと?」

「あー!やっぱりきいてなかったんだ!もー、だめでしょ!」

「ご、ごめんなさい……」

 猛烈に怒られた。思考することも許されないのか。

「うーん、あやまったからゆるしてあげるー!でねー?しゅりがさっきいってたのは、いつしゅりとふうふになるかってことー」

 ……またか。僕は単純にそう思う。彼女はその性質上、このようにひどい妄想癖と妄想力があるのだ。彼女は人間の未知の恐怖から生まれた産物だ。だからこそ妄想癖や妄想力が彼女を形どっているといえば聞こえはいいが、僕としてはなんとも微妙なところだ。求婚している人物は妄想癖の人外なのだから。……だが一番問題なのはそんな彼女のことを僕が好きという事態なんだよなぁ。

「何度もいってるけど、僕はしゅりと夫婦にはならないよ。というかなれないよ」

「えー? でもしゅりはじゅんびばんたんだよ?」

「しゅりが準備万端なのは学校の教室の僕の席の隣で絵本を読むことくらいだろ」

 深く深くため息を吐く。自分以外に見えない女の子がそばにいて、自分はその子と結婚するんだなんて口が裂けても言えるわけがない。危ない奴にもほどがある。そんな人物はこの世界で何と呼ばれるか、僕は心得ている。──精神異常者。それがそいつらの呼び名だ。

 僕以外にはしゅりの姿が見えないし声も聞こえない。そんな中で僕がしゅりの言葉に返答していたら、いったい他者にはどのような姿で映るだろうか。想像するに難くない。でも、僕はそれでもいいと考えている。僕にとってみれば、大多数の他人よりたった一人の初恋の相手のほうが大事だから。

 それにこんな僕にでも話しかけてくれる人はいる。ほら、噂をすればなんとやらだ。

 たったった、アスファルトを踏む軽快な音を聞きながら僕は振り返る。やはりそこには彼女がいた。

「おっはよー!明くん!相変わらずつかれた顔してるねー!」

「わかる?僕みたいな人種は苦労が絶えないからね」

 やれやれと首を左右に動かしながらため息を吐く。

「明くんみたいな人種は自分から厄介事に首を突っ込んでいくからねー。あ、ところで明くん、明日ある数学のテスト大丈夫?」

「……え?そんなのあったっけ?」

「……明くん、先生の話はちゃんと聞いておかないと……。春休み明けにテストやるって言われてたでしょ?」

「あー……ごめん。春休みはだらだら生活送ってた。そのー……今日教えてくれない?」
「しょうがないなー、まったく」

 佳奈はやれやれと頭を振った後、鞄から一冊のノートを取り出した。

「はい、ノート。ここにポイントと範囲が書いてあるからまずは自分で勉強すること。その後で私に質問して?」

「えー……最初から佳奈が教えてくれればいいのに」

「ダメダメ、そんなことしてたら明くんは成長しないでしょ?いつまでも私がいるわけじゃないんだからね」

「あきらにはしゅりがいるからいいもんねー!」

 僕の胸を指でとんっと叩く佳奈の目の前で、しゅりは思いっきりあっかんべーをした。 佳奈が分かるわけないのによくやるな。でも僕的にしゅりの可愛い部分が100%引き出せてるから問題ない。

 僕と佳奈はしばらく二人で歩を進める。しゅりは現在僕の背中におんぶで移動している最中だ。

「そういえば、今日から二年生だけど僕と佳奈はまた同じクラスになれるかな?」

「あー……どうだろう」

「……なんか怖くなってきた。だ、大丈夫だよね?」

「まぁ私はいいとして、明くんは困るよね。唯一の友達がいなくなると」

「べ、別に佳奈以外にも友達はいるよ!……作れば」

「明くん、自分で言ってること矛盾してるって気づいてるよね?」

 バカを見るような目で僕を見てくる佳奈。くッ……そんな目で僕をみないでくれ!

 でも──

「確かに、僕が学校に行けるのは佳奈のおかげなんだよな。だからあながち、佳奈がいないと困るってのは間違ってないと思う」

「な……ッ!?いきなりそういうセリフで攻めてくるの!?」

 ずさっと後ずさる佳奈。そこまで驚くことなのか。顔が引き攣るほどなのか?

「な、なんだよ……これでも僕は感謝してるんだからな?佳奈がいてくれなかったら、今の僕は存在しないんだからさ」

 佳奈はその容姿と分け隔てなく接する性格からか、男女問わずモテモテだ。そんな彼女が僕のそばにいつもいてくれるから、僕はなんとか学校生活を行えている。

 そして彼女がいるから、僕はまだ人間でいられる。しゅりに引っ張られなくて済む。片足を突っ込むくらいですんでいる。

 そんなこと言ったところで、佳奈には分からないだろうけどさ。でもそれでいいんだ、僕が勝手にそう思ってるだけだから。

「だからさ佳奈──って、どうしたの?」

 僕と佳奈は話している間もずっと二人肩を並べて歩いていた。だから僕はつい佳奈は自分の隣にいると思って話を振ったのに──

「いつまでそこで固まってるの?学校に遅刻するよ」

「う、うるさいよ! まったく、明くんってそういうところがダメなんだよね!」

 つかつかと歩み寄ってくる佳奈。ものを蓄えこんでいるリスのようにほっぺを膨らませている。

「そんな調子だと明くんはいつか痛い目みるよ! まったくもう!」

 怒る佳奈。ものすごく怖い。

 でも、ふと佳奈は怒りの表情から一転、優しい笑顔を見せてこういった。

「でも明くんにそう言われると嬉しいな。ありがと、明くん」

「う、うん……」

 女の子ってとてもずるい生き物だと思った。

 ほんとにずるいよ……。

「ぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽ」

 後ろを振り向くのが怖い……。

            ☆

「いやー、学校も久しぶりだねー!」

 佳奈が元気よく校門から学校の敷地内へと入っていく。此処は正門。学校の生徒が出入りできる場所の一つだ。僕は一度自身が通う変わった校舎に目を向けた。螺旋階段が校舎内を突き破っている学び舎を見上げる。一年間通ったけどやっぱりあの校舎はおかしいと思う。ここを卒業し、こういった建築専門のプロになった人が手掛けたらしいけど……斬新ならいいってもんじゃないぞ。だけどあの校舎はあの校舎ですごく学校側に役だっているところがある。なんせ学校の屋上に上がれる階段が、唯一あの螺旋階段のみなのだ。そのため屋上でサボろうとすればすぐに見つかるし、三階建ての校舎全ての渡りにも使えるしで、学校側は非常に喜んでいる。

「まぁ言われてみればそうだね。春休みって意外と長いんだよなー。やることないと暇過ぎて」

「うわぁ……明くん、もしかして私と遊んだ日以外はずっと家にいたの?」

「え? 普通長期休暇って家でゆっくりするものだろ?」

「明くん、人付き合いってものを知ったほうがいいよ……」

「あきらにはしゅりがいるっていってるでしょー!」

 しゅり、だから聞こえないってば。でも、人付き合いかぁ……。

「あまり積極的にはなれないなぁ」

「でも明くん、意外とちゃんと喋れてるしもっと前に出ようとは思わないの?友達は多いほうがいいよ?」

「逆に疲れない? そりゃ僕の友達が全員とも佳奈みたいな人なら、僕は喜んで友達作りに励むけど」

「あーじゃぁダメだね。私みたいな女の子、世界広しといえどきっといないよ」

「だろ? だから僕は積極的に友達を作ろうとは思わないんだよね」

 それに、しゅりがいるし。

 先程から頬を膨らませて僕の頭を突いてくるしゅり。背中におんぶされているしゅりは、見た目通り考え方も少女というより幼女そのもの、言動も幼女そのもの。だけど──彼女は少女ではあるけども、その細腕でいとも容易く人間の首を折ることができる。

 人間はしゅりの前では雑草でしかない。

 だからきっと、佳奈だっていつかはしゅりに殺される。いや佳奈だけじゃない、これから僕に関わる人全てがしゅりの手によって殺される。しゅりは恐ろしいほどの気分屋で、狂おしいほどに僕のことが好きだから。そして僕も──

「明くんってばッ!」

「うわぁ!?」

 少し考えごとをしていたからか、僕は佳奈との会話を放棄していたらしい。目の前で足の小指を踏みぬく佳奈をみてそう確信した。

「な、なんでしょうか佳奈さま……」

 痛い、ものすごく痛い……。こんなに小指を踏み抜かれるのが痛いとは思わなかった……。

「だーかーらー、明くんさ、友達はいいとして彼女とかは欲しいなぁって思わないの?」

「彼女? 僕が?」

「そうそう」

 ははっ、何を言ってるんだ。それこそ僕には不要な存在だ。しゅりが──

「しゅりはおよめさんだからー、あきらのかのじょはだれになるのかなー?」

 おーっと、意外な人物から予想外の言葉が飛び出してきた!

 どうやらしゅりの中では、彼女とお嫁さんは別の存在みたいだ。そりゃまぁ、彼女になった人が必ずしもお嫁さんになるとは限らないけどさ……。

 だけど彼女かぁ……。

 うーんやっぱり佳奈かな?いやでも、なんか違うなぁ。確かに僕は佳奈のことが好きだけど、彼女ってのは違うと思う。

 それに、僕と彼女はもう既に恋人なんて生温い関係以上の関係になってしまっているんだから。

 だとすると──

 そこまで考えて、校門付近が騒がしくなる気配を感じた。

「およ? 明くんどうしたの? 早くクラス発表見に行こうよー。あぁ……成程ね」

 ざわざわと騒がしくなる校門を見ながら、佳奈はその中心で微笑む彼女の姿をみて納得する。

 彼女は有象無象の野次馬に嫌な顔一つ見せず、優しく微笑む。その姿はまさしく天使だった。

 クラス替えの紙を見に掲示板へ足を進めていた僕たちと校門付近にいる彼女とは距離があるけど、それでも一目見たら忘れない。少しでも視界に入るとその姿を一生追ってしまいそうになる。

「うーん、やはり同性から見ても可愛いよね。姫条さん。流石、桜峰学園のアイドルだけある」

 隣で佳奈がうむむと唸る。佳奈だって可愛くて頭もよくて人付き合いも完璧だ。でも、そんな彼女すら認めてしまうほど──姫条茜きじょうあかねという存在は輝いていた。
 学園の全ての男子が彼女のことを好いている。いつでもどこでも彼女のことを狙っている。きっと彼女と同じクラスで一年間を過ごせるクラスメイトは幸せなんだろうなぁ。その代償として、クラス外の人達からは冷たくされるだろうけど。もし、彼女に声をかけられるようなことがあれば、その日一日、幸せな気分で過ごせることだろう。彼女はそれほど人を魅了する。

「ねぇ佳奈?」

「んー?」

「さっき僕の彼女の話してたじゃん? あれさ姫条さんだったらいいなぁって思う」

 勿論、僕もそんな彼女のことが気になっている。本当に気になっている程度なんだけどさ。ちょっとお話できたらいいなと思うだけなんだけどさ。僕にはしゅりがいるから、それ以上のことは望まないし、それより先の関係になろうなんて考えない。ただ、恋人を人間に限定したら姫条さんだったらいいなというだけの話だ。

「いやー明くんには無理だから止めたほうがいいよ」

「わかってるよ、ちょっと言ってみただけだよ」

「いやいや明くん。この学園で姫条さんの彼女になりたいなんてこと言っちゃダメだよ。 ──殺されるから」

 いつからこの学園は暗殺を容認する学校になったんだ。

「あきら大丈夫だよ!しゅりがいるからもんだいないよっ!」

 後ろから顔だけ出して少女で幼女が僕のことを励ましてくれる。あぁ……やっぱりしゅりが一番だ。

 不自然にならないレベルで僕はしゅりの頭を撫でる。嬉しそうに、それでいてくすぐったそうにするしゅりがとても愛しかった。

「僕だってちゃんと分別つけてるよ。花は触れないからこそ綺麗なんだ。それに、僕と姫条さんとじゃ次元が違いすぎるよ」

 まさに高嶺の花というわけだ。

 佳奈はそんな僕をみて、うんうんと頷いた。

「よかった、明くんがまともな判断を出来る人で」

「そうとわかったら早くクラス割り振り表を見ちゃおうよ」

「それもそうだね」

 僕と佳奈は掲示板に近づき覗き込む形でクラス表を見つめた。左端に書かれている一組から順々に読み進めていく。

「「あっ」」

 見つけた。そして佳奈も丁度見つけたようだ。

「いやー……まさかこうなるとは」

「よかった……これで僕の高校二年生は黙ったまま終わらずにすみそうだよ」

 隣でうむむと構えている佳奈をよそに、僕はこの結果を素直に喜び安堵のため息をつく。

 結果だけを見ると、僕は佳奈と同じクラスになった。つまり、もう一年間佳奈と一緒に高校生活を送れるわけだ。

「よかった、本当によかった……」

「もう、明くんは大袈裟だなー。私がいないとそんなに寂しいの?」

 意地悪そうに聞く佳奈に、僕は素の表情で答えた。

「寂しいに決まってるよ。そもそも話し相手がいなくなる」

 母さんには見栄を張ったけど、僕が友達と呼べる人間なんて佳奈以外に学校にはいないだろう。いや、学校だけじゃなく卒業してからも現れるかどうか。精々社交的挨拶とか付き合いがあるくらいの仲どまりだろう。

 そもそも僕の命はしゅりが握ってる。いらない人付き合いをしてまでしゅりの機嫌を損なう必要は皆無だ。

 しゅりが僕と佳奈との関係を許してくれているのも、きっとただの気まぐれ。あるいは──僕の精神安定剤としての起用。僕は普通の人と関わりを持つのは困難だから、せめてもの温情かもしれない。

「なんて……そこまで考えてるわけがないか」

 僕の後ろで呑気にカエルの歌を歌ってる少女が考えることじゃないな。

 それよりも僕はまずやらなきゃいけないことがあるんだ。

「佳奈、クラスが分かったなら早く行こうよ──って佳奈? どうしたの?」

「……明くん、明くんの高校二年生は灰色になるかもしれないよ……」

「は?」

ため息を吐く佳奈の言っていることがいまいち理解できない。しゅりがいて佳奈がいる。僕の二年生の高校生活は完璧な布陣だ。

「いやいや明くん。 あそこに書いてある名前読んでみなよ」

 佳奈が指さす方向に視線を向けていく。どうやら佳奈は自分の名前の場所を指しているようだ。僕の目が正常ならば、僕の瞳にはちゃんと佳奈のフルネームが書き込まれてある。

「じゃなくてその下。ほら、あそこに一際輝く名前を読んでごらん」

 言われた通り佳奈のすぐ下の名前を見つめる。見つめたまま、僕はあまりの偶然に唖然とした。佳奈が呟く横で僕は一人でテンパる。挙動不審の不審者と化す。

「まさか同じクラスになるとは……。うわぁ、五郊くんもいるよ。私あの人苦手なんだよねー、ボディタッチ多いし。それに噂だと女の子をローテーションしてる最低な男みたいだし。あーやだなー、このクラス。折角明くんと一緒になれたのに……。ねぇ明くんもそう思わない?」

「ねぇ佳奈」

「んーなに?どうしたの?」

「僕はどうすればいいの……?」

「明くん、唖然としてるところ悪いけど、きっと明くんは姫条さんと一言も喋ることなく二年生を終えると思うよ?」

「……言われてみればその可能性のほうが高いよな、かなり」

 僕は何で取り乱してたんだ。

 しかしまぁ……なんだか僕のクラスはすごいことになりそうだな。

 学園のアイドルとNo.2、そして女子人気No.1のあの五郊隼も一緒なんて。絶対にクラス編成間違ってるよね、これ。

「ほら明くんもう行くよ。噂の姫条さんが来てるんだから」

 佳奈が腕を引っ張り、掲示板の前に突っ立っていた僕を引き寄せてくれる。そこに入れ替わりのように姫条さんがやってきた。楚々とした雰囲気は男子のみならず女子までもがうっとりと視線を浴びせていた。それにしても姫条さんの進む先がモーゼの十戒の海割れみたいになってるのが面白い。

 姫条さんは自分の名前を探してるのか、人差し指でゆっくりと一組から順に辿っている。

 不意にその指が止まる。僕と佳奈と同じクラスの場所で。

 そして始まる阿鼻叫喚の地獄絵図。

 亡者のごとく同じクラスになれなかった同級生は脆く崩れ去る。しまいにはその場で嘔吐する奴までいる始末。

 そんな取り巻きの行動など意に介していないかのごとく、姫条さんは嬉しそうに自分のクラスの掲示板を写メる。……なんだ、普通の女の子じゃないか。

 僕は姫条さんの様子を見ながら少し顔を緩める。

「明くん、完全にキモい人になってるよ」

「えっ!?僕そんなに危ない人になってた!?」

「ねぇあきら浮気? しゅりがいるのに浮気?」

佳奈の冷たい視線が僕の顔に突き刺さる。しゅりの物理的攻撃が僕の体を蝕んでいく。そんな状態の中、誰かがこちらにやってくる足音が聞こえてきた。

 その音に反応し、僕は反射的にそちらに顔を向ける。

 目に飛び込んできたのは、一際輝く学園のアイドルの笑顔だった。

「明君、やっと同じクラスになれますね!」

 僕に笑顔を向ける彼女。学園のアイドルと言われるだけあってその笑顔はとても可愛らしく、佳奈としゅりの物理と精神攻撃がエスカレートする中、僕の脳裏には何故か小さい頃の彼女の顔が鮮明に浮かび上がってきた。




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