四話
あの後、僕は姫条さんを家まで送っていった。二人とも黙ったままの家路だったけど、姫条さんは家に入るその瞬間、小さく手を振ってくれた。
姫条さんの家は僕や佳奈みたいに中心と外側の中間地点じゃなく、バリバリの中心地点だった。大きな二階建ての家に小さな庭、大型犬がお出迎えしていた様子はまさにお嬢様そのものだった。
僕は電車で最寄駅まで移動し、徒歩で家路につきながら携帯電話で母さんにメールする。
「もうすぐ帰りますっと」
メール送信完了から10秒後、すぐに携帯に着信が鳴る。ディスプレイの表示は勿論母さんだ。出たくない、出たくないけど……出ないと後が怖すぎる。
深呼吸で呼吸を整え、通話ボタンを押して耳にあてる。
「も、もしも──」
『明!?いまどこにいるの!?大丈夫!?』
キンキンと耳につんざく母の声。
しゅりにも聞こえていたのか、両手で耳を押さえている。
「お、落ちついて母さん!もう帰るから!すぐ帰るから!」
別に僕の言葉は嘘じゃない、いま進んでいる道のあの角を曲がれば僕の家はすぐ目の前だ。
『ほんと? ほんと?』
「本当だよ母さん。だから心配しないでって。そういえば、そこに佳奈いる?」
『佳奈ちゃん? 佳奈ちゃんなら横にいるけど』
「ああ、それはよかった。佳奈に代わってくれる?」
僕の言葉に母さんは一つ返事で答える。
『もしもし明くん?』
「あ、佳奈? あのさ──」
『電話越しじゃなくて目を見て二人で話そうか』
ブチっと切られた携帯電話。僕の心は折れる寸前だ。ツーツーと無機質な音を発する携帯電話をしまいながら、僕はしゅりを抱っこして角を曲がる。なんでしゅりを抱っこしたかって?少しでも現実逃避したいからさ。
『あ!おかえりー明くん!』
玄関先で出迎える青筋浮かべた佳奈の笑顔をみて、僕の心は完全に折れた。
☆
玄関に入るなり飛びつく勢いで僕を迎えてくれた母さんに謝りながら、僕は佳奈と一緒に自分の部屋へ入った。僕は部屋の中央で正座、佳奈は僕の机の椅子に座って腕を組んで僕を見下ろしている。佳奈の服装は制服だ。母さんから聞いた話と時間を照らし合わせてみたところ、僕が五郊と一悶着あった時には既にこの家にやってきたみたいだ。そしていつまでも家に帰ってこない僕の代わりに、佳奈が母さんの話し相手になっていた。
コンコンとドアをノックする音。それに部屋の主人である僕ではなく佳奈が答える。
「佳奈ちゃん、明。紅茶とイチゴのショートケーキどうぞー」
嬉しそうに上機嫌で来客用の小さなテーブルに三つずつ、紅茶とイチゴのショートケーキを置く母さん。佳奈はそれににこやかに答え、お礼を言いながらはにかんだ。
母さんはリビングにいるからね、と言い残しそのまま部屋を後にした。
それを笑顔で見送る僕と佳奈。母さんの姿が完全に部屋から消えると──
「さて、明君? 言うべきことがあるよね?」
足を組みつつそう促した。どうしよう……言うべきことが多すぎて何から謝罪すればいいのやら。
「えっと……紅茶とケーキ食べながらにしない?」
まずは僕の常套手段、気を逸らす作戦。
佳奈は僕と紅茶とケーキの間を交互に彷徨わせた後、
「まぁ……紅茶も冷めるとおいしくないし、ケーキも早く食べたいしね。それに、食べながらでも話は聞けるしいっか」
僕は自ら逃げ場のない舞台に飛び込んでしまったようだ。
佳奈は椅子から立ち上がり改めて僕の正面、カーペットの上に正座する。
「あれ?杏あんずさん人数間違えてない?ケーキと紅茶一つずつ多いよ。それにこれ紅茶じゃなくてりんごジュースだし」
「いやこれであってるよ」
「ふーん。まぁ明くんの所はたまにあるもんね。わざと人数分多くしたりとか」
「多い分には困らないしね」
「確かに」
中学からの付き合いだけど、佳奈はとても察しがいい。僕たちが踏み込んでほしくない領域には絶対に踏み込もうとしない。なんというか、やっぱりこれだけ可愛いと自然に危機察知能力が優れていくものなのだろうか。
「あきら!これいちご!いちごのってるよ!」
ちなみに人数より多く用意している元凶というか原因であるしゅりは、イチゴのショートケーキをみて目を爛々と輝かせていた。どうやらお気に召したようだ。
「ほんとはみたらしだんごがよかったけど!」
鼻にクリームをつけて言っても説得力は皆無だと思う。
しゅりがおいしそうに食べるもんだから僕は思わずごくりと咽喉を鳴らす。よし、僕もさっさと食べよう。
向かい側では既に佳奈がケーキを食べながら幸せそうな表情を浮かべていた。ご丁寧に上に主張しているイチゴは残しているようだ。
「ねぇ佳奈、僕のイチゴ食べない?」
それとなく、本当にそれとなく聞いてみる。大丈夫、この聞き方だとまだ僕はミスっても引き返せるし、誘導もできる。
「うーん、イチゴ一つで謝罪されてもなー」
あぁ……佳奈には全部お見通しというわけか。引き返す?誘導できる?違う違う、佳奈が僕の正面に座った時点で僕は佳奈の手のひらの上に移動したんだ。でもまぁ、それが分かっても嫌な気分にならないところが佳奈の凄いところかな。
「でもまぁせっかく明くんがくれるっていうからもらってあげよう」
「どうぞどうぞ」
佳奈は左手で僕のイチゴを掴むと、自分の皿に置くことなく口に運んだ。もぐもぐと咀嚼し飲み込む佳奈。
「うん、おいしいね」
「てっきり残しておくと思ったんだけど」
「なにいってるの、明くんがくれたものなんだからすぐに食べないと。ほら、人が好意でくれたものをいつまでも人に見えるところに置いておくのは失礼でしょ?」
「……確かに、言われてみればそうだね」
「まぁそんなわけでごちそうさまでした。さて明くん、イチゴを貰った手前あんまりきつく言わないけど──私待たせてなにしてたの?」
佳奈の目が細くなる。ハンターがターゲットを狩るときの目をしている。
ここでの僕の選択肢は後々非常に重要になってくる。
「えーっと……」
「嘘ついたらどうなるかわかってるよね?」
「すいません。姫条さんとハンバーガー食べて公園で少しお喋りしてました」
姫条さんの名前でピクリと体が反応した佳奈。
「や!ちょっとまって佳奈!佳奈が思ってるようなことは一切なかったから!」
「私が思ってること? 例えばどんなことかな?」
……僕はいま自ら地雷に足を突っ込んでいかなかったか?
自分が喋ったことを反芻し考える。何もやましいことはないはずなのに……なんだか体から冷や汗が垂れてきた。
佳奈はテーブルに肘をつきもう一度質問してくる。こんどはゆっくりと、ハッキリと。
「私が思ってるようなことってどんなことかな?」
蛇に睨まれた蛙の気持ちがよくわかった気がする。これじゃ蛙も自ら身を捧げるわけだ。
「えっと……キスとか……」
「とか? キス以外にも何かあるのかな?」
「いえもうないです!ありません!キス以外に選択肢なんてありません!」
すっと鋭いナイフのように尖らせた佳奈の視線に、僕は首を横に全力で振ることで答えた。
「ふーん。で? 楽しかった? 学園のアイドルと一緒に昼食とって、食後は公園で優雅にお喋り。明くん意外とお手が早いようですね」
ケーキが置いてあった皿にフォークを突き立てる佳奈。等間隔でカッカッカという音が僕の耳にはいってくる。怖い、怖すぎるよ。誰か助けて。
この部屋には僕と佳奈以外にしゅりがいる。しゅりは佳奈には視えない存在だ。なんとかして気を逸らしてもらうと──
「くー……くー」
しゅりはケーキを食しりんごジュースを飲み干すと、僕のベッドですやすやと眠っていた。どうりで部屋が静かなわけだ。
だけど──これはこれで使える手を発見した。
「うわぁ!誰もいないはずなのに余ってたケーキとジュースがなくなってる!?」
「うん、そうだね。それでさ明くん」
あれ?ちょっと反応が薄くない?もっとこう……普通驚くものだよね?
だというのに佳奈は僕の必死な演技に、生返事で答えて先に進めようとする。これじゃ完全に僕がスベッてる男みたいじゃないか。
「これが教室じゃなくてよかったね明くん。いまのは完璧にスベッてたよ」
「これ以上僕の傷を広げないで!僕もう生きていけなくなるから!」
恥ずかしい!顔から火が出るほど恥ずかしい!
きっと僕の顔は真っ赤になっていることだろう。だけど佳奈はそんな僕にお構いなしで先へと進める。
「まぁさっきのは冗談だよ。明くんが奥手なのはわたしが一番知ってるからさ。ところで、明くんと姫条さんって結局どういう関係なの?」
「まさしくそのことを昼食時と公園の時に話してたんだけどさ、なんか昔住んでた村の知り合いみたいなんだよね。僕が村の子ども達のリーダーだったとか」
「ぶふッ!」
紅茶吹くことないじゃないか。
佳奈は僕の答えを聞いて、口の中にいれたばかりの紅茶を噴き出した。慌ててポケットからハンカチを取出しテーブルを拭こうとするので、僕はそれを制して部屋に置いてあるティッシュで拭く。
「佳奈笑いすぎ。僕だって何がなんだかわかんないんだから」
「ごめんごめん。なんか明くんがリーダーってのがツボって」
「どうせ似合わないですよーだ。僕だって姫条さんの話聞いてないなって思ったんだから。でも姫条さんが嘘ついてるようには見えなかったんだよね。それに僕が幼少時代の記憶が曖昧なのは確かだし」
「私も姫条さんは嘘ついてないと思うよ。──だって明くん似合うもん。リーダーの役割」
この僕が?リーダーだって?
「無理無理。友達すら満足に出来ないんだよ僕は」
「明くん、リーダーに必要なのは引っ張る力と絶対の安心感だよ。きっと姫条さんは幼少時代にその二つを貰ったんじゃないかな、明くんに」
「そうかなぁ。引っ張る力と絶対の安心感ねぇ……」
僕にその二つが備わっているとは思えない。すくなくとも、小学校に上がった頃から現在にかけては。
かといって、幼少時代の僕が姫条さんのいうようにリーダーみたいな存在感を放つほどの凄い男の子だったかというと……。こればっかりはわからないから自分で結論を出すのが不可能だ。
「でもそれなら、佳奈のほうがリーダーに向いてると思うんだけどなぁ」
「へ? 私?」
「そうそう。だって僕は佳奈に絶対の安心感をもってるし、佳奈が笑顔で『出来るよ』って言ってくれると出来る気がしてくるもん。それって立派なリーダー体質じゃないかな」
僕には身近なリーダーが二人もいる。一人はいま言った佳奈。そしてもう一人は僕のベッドで寝てるしゅり。特に僕はしゅりに絶対的な安心感をもっている。中学時代に一度、その力を目の当たりにしたから。彼女の本気の一旦を垣間見たから。
むにゃむにゃと寝言を述べているしゅりに僕は視線を向ける。なんとまぁ……可愛らしい寝顔なんだか。しゅりの寝顔を見て癒された僕は佳奈のほうに向きなおる。さっきから佳奈が一言も喋ってないのが気になる。
「うぅ……明くんの癖に……。明くんの癖に……」
小さくぶつぶつと何かを呟いてきた。なんか恐ろしい。内容までは聞き取れないけど、僕の名前は微かに聞こえてくる。
「か、佳奈……?」
「はっ!?な、なにかな明くん!?」
「い、いや……俯いて具合が悪そうだから心配になって」
「も、問題ない!全然問題ないよ!あはは……」
手を横に振ってオーバーリアクション気味に答える佳奈。探りを入れてみたけど不味いなにかを踏んだわけではないので安心した。それに佳奈がここまで誤魔化そうとしてるものなんだから、これ以上僕側から詮索するのはやめにしよう。佳奈が僕のことを詮索しなかったように。
……場が少しは温まったから聞いておくか。
「ねぇ佳奈。僕が五郊君に声かけられてついて行ったとき、どこにいた?」
「へ? どこにいたか? そりゃ……明くんの家に行ったよ?てっきりすぐ帰ってくると思ってたからさ」
ってことは僕と五郊のあのやり取りは聞いてなかったわけか。
「佳奈が苦手って言ったけど、僕は五郊君が嫌いだなぁ」
「おやおや? もしかして連れだってどこか行ったとき何かあったのかな?」
「うん。ちょっとね。僕は五郊君みたいな考え方の人と仲良くできる自信はないなぁって」
「ふふっ、明くんは純粋で素直だからね。人の悪意とか許せないタイプでしょ?」
「だれだって悪意は許せないでしょ。佳奈だってそうでしょ?」
僕が思うに、佳奈は一番そういうのを許さないタイプの人間だと思う。それにしても僕が純粋で素直ねぇ……。それはきっとしゅりが一緒にいるからかもしれない。しゅりは僕には身に余るほどの存在だ。なにか影響されていても不思議ではない。
佳奈は僕の問いかけに少し間を置いて考えてから、
「確かに私もそういうのは許せないタイプだけどね。でも明くんの場合、どんな強大な悪にでも立ち向かっていきそうなイメージ」
「そんな……それは僕の中では一番存在しないイメージなんだけど。普段の僕をみてなんでそんなイメージが沸くの?」
げんなりしながら僕は答える。ないないないないありえない。僕は強大な悪には尻尾巻いて逃げるタイプの人間だよ。ただ──
「うーん……なんか雰囲気がそんな感じかな」
あぁ……それならなんとなく理解できる。ただ、佳奈はちょっと僕のことを誤解してるようだ。本当の僕は強大な悪に立ち向かうほどの勇気はない。ただ──僕はどんなに強大な悪だと言われる存在も、しゅりの前では無力に等しいということを理解しているだけだ。
圧倒的な理不尽と他を蹂躙することが許される暴力
その二つを併せ持つ彼女を越える存在を僕は知らない。ただそれだけのことだ。
たったそれだけのことなんだけど、佳奈がそう思ってくれてるのならその期待に応えよう。
「それなら、もし佳奈が悪に攫われたら僕が佳奈を救ってあげよう」
「そのときはお姫様抱っこでよろしくね」
「僕もやしだから出来るだけ体重落としといてね」
「それ私が重いってことかな?」
あ、なにか逆鱗に触れたっぽい。
佳奈はゆらりと立ち上がり、向かい側にいる僕の方に一歩一歩ゆらりゆらりと近づいてくる。その姿、怨霊纏いし幽鬼のごとく。僕は慌てて佳奈から距離を取ろうとするも、ふいに伸ばされた手に頭を掴まれ下に押さえつけられる。
「明くーん、私ってそんなに重いかなー? そんなに重いかなー?」
僕を仰向けに寝かした佳奈は、お腹の上に乗りマウントポジションをとる。勢いよく乗るものだから肺が二酸化炭素を一気に放出し息が苦しくなる。佳奈が乗ってるからうまく呼吸もとれないしなおさらだ。佳奈は両の指をバキバキと鳴らし僕をしっかりと見据えている。もし立っていたならば足が竦んで膝から崩れ落ちるところだったのだが──それよりも
「佳奈……高校生なのに黒の下着は早いと思うんだ……」
それよりも佳奈のスカートの中が僕の目線だと盛大に丸見えになっていたので目のやり場に困った。
「へ? ……ちょっ!?」
一瞬何を言われているのか理解していなかった佳奈だけど、僕の目線を辿った先にあるものを確認し一気にお腹から飛びのいた。しっかりとスカートをガードして恥じらってる姿がやばい。
佳奈は僕のほうをむーっと見つめて、
「……別に普段からこういう下着履いてるわけじゃないからね? 勘違いしちゃダメだよ?」
そう言ってきた。いや、違うほうの勘違いをしてしまいそうなんですが──!
もじもじとする佳奈に僕の心は完全に持っていかれた。なんて恐ろしいんだ……。僕が獣だったら佳奈は──
『あの子経験なさそうだしなぁ』
違う、そうじゃないだろ僕。佳奈はいま僕以外の獣に狙われてるんだ。佳奈だけじゃない、姫条さんだって狙われてる。あいつのあの口ぶりからすると、どっちから先に手を付けるだろうか。
「だからね明くん? 私はただ単に、人の家に上がりこむのに失礼な下着を履くのはダメだよなーって思っただけで──って明くん? どうしたの?」
「へ? あ、なに? ごめん、ちょっと考え事してて。悪いんだけどもっかい言ってくれる?」
「いやいいよ……同級生男子の部屋に失礼な下着を履くことの過失さを訴えたところで空しくなるだけだから……」
佳奈はいったいどんな内容の熱弁を振るっていたのだろう。すごく内容が気になってくる。
「すごく内容が気になるんだけど……教えてくれないよね?」
「勿論だよ、未来永劫教えないよ」
何故か拗ねたようにそっぽを向く佳奈。……怒ってる?
「怒ってないよ」
「僕まだなにも言ってないんだけど」
「表情みれば大体分かるよ、明くんの場合」
僕はそんなに読まれやすい表情をしてるんだろうか。
「困ったな、僕は自分ではポーカーフェイスだと思ったんだけどね」
「ないない明くんがポーカーフェイスとか人類冒涜してるの?」
「え!?そこまで!?そこまで言われるの!?」
「まぁ明くんだからね。人類も許してくれるはずだよ」
僕は忘れない。いまさらっと僕を人類から外した佳奈の言動を。
「ところで明くん、そろそろ明日のテスト勉強しない? そのために私は来たんだし」
「……僕今日は疲れたんだけど」
「は?」
「じょ、冗談だよ冗談!ほ、ほら早く勉強しよ!」
学校指定鞄からノートと筆箱、それに佳奈が貸してくれたノートを取り出し机の上に広げる。さっき食べたケーキの皿や紅茶が邪魔だからお盆に置いて隅に寄せておくとしよう。
僕は佳奈の分のスペースを確保し、佳奈ノートと自分のノート、筆箱からシャーペンと消しゴムを取り出す。佳奈曰く数字はとにかく数をこなすこと。でも僕の場合はその前段階の解き方がいまいちよく分かっていない。
「明くんは公式通りに出来るけど、そこからの応用がうまくできないんだよねー。そこさえ出来ていけば大丈夫なんだけど」
「応用しようとすると書いてる途中でぐしゃぐしゃになっていくんだよ。佳奈はそんなことない?」
「私? 私はそんなことないよ」
「うーん……頭の回転の違いか能力の違いか」
「単純に明くんの努力不足でしょ」
成程、わかりやすい。確かに僕は数学に関してはあまり努力をしてない。数字ってみるだけで頭痛くなってくるんだよなぁ……。
「ほらほら明くん手が止まってるよ!ロスした分を取り戻すんだから手を休めない!」
隣で佳奈は僕が解く問題をじっと見つめながら、ときたま分からなくて手が止まると赤ペンでヒントの問題文に線を引いてくれたり、公式を書いてくれる。リアル赤ペン先生状態だ。佳奈は言葉通り僕に手を休ませる暇を与えない。毎回テストのときはこうやって佳奈にお世話になってるけど佳奈のやり方はシンプルだ。
頭で考えるより先に手が反射的に答えを書けるようにする。
その極地にいくまで佳奈の赤ペン先生は止まらない。毎回極地までいってすぐに忘れる僕のほうに問題があるんだけど。
しかしまぁ、佳奈は学園のアイドルの次にくるほどの可愛さをもつ存在だ。胸だって姫条さんよりはないけど、無い乳ではない。……いやあれは姫条さんが大きいのかな?とにかくそんな佳奈と僕は隣に座って勉強をする。佳奈のスカートから覗く太ももが僕の太ももに触る。佳奈のいい匂いが僕の鼻腔を満たす。佳奈の全てが僕に寄りかかってくる。
他の男なら佳奈を押し倒すかもしれない。だけど僕は許されない。いまの佳奈は僕のことを思って一生懸命僕のためにしてくれてるし──なにより僕の隣、佳奈とは反対側にはいつの間にか起きていたしゅりが数学のノートを面白そうに眺めていた。初恋がいる前で佳奈に手を出してみろ。僕は彼女の逆鱗に触れて殺される。
僕の生命与奪は彼女が握っている。
そして、そんな彼女と出会ったのがあの村。もっといえば僕の祖父母の開かずの間。周囲をおびただしいほどの、恐怖すら怯えるほどの札が張られた部屋。僕が入った襖以外は全て金具で留められていた。まるで他の介入・侵入を拒むかのように。
しゅりはそんな部屋の中心に座っており、僕も気が付けばしゅりの目の前に座っていた。いま思えば、しゅりは何をしてあそこにいたんだろうか。僕の家系は妖怪や物の怪の類を扱う家系ではない。だってその直系で長兄にあたる父と、妹である叔母には妖怪が見えないのだから。それだけじゃない、あのとき──僕以外の存在はしゅりという複雑怪奇な少女を一切見ようとしなかった。気づかなかった。そしてしゅりもまたそれを理解していたようだった。
つまり僕だけが彼女の姿を視ることができたのだ。僕が彼女に魅了され、僕が彼女に魅入られたから。だから彼女の姿は僕にしかみえない。ぽぽぽと嗤う歩く斬首人は僕にしか視えないはず。
そう思っていた──姫条さんが視えるまでは。
姫条さんは言った。自分があの村の出身者であると。その出身者である姫条さんが視えて、父と祖父母が視えないのは変な話である。僕が視えるのだから血を同じくする一族が視えないというのはどういうことなのだろうか。
今日の朝しゅりと初めて会ったときの夢を視て、しゅりのことが視える姫条さんと出会って僕は一つの疑問が沸いた。
しゅりはなんで僕を呼んだんだ?
しゅりはあの時、自分で僕を呼んだと言った。
僕はこの長い年月、ずっと自分がいつの間にかしゅりに魅入られていたか、ふとした拍子に魅入っていたのかと思っていた。だから魅入られた僕はしゅりの姿が視えているのだと。だけど姫条さんはしゅりに魅入られていないはずだ。なんせあの子としゅりは初対面だし、しゅりは僕以外を魅入るつもりはないと言った。
だから姫条さんは純粋に、元々しゅりが視えていたんだと思う。
だったらなぜ、しゅりは姫条さんではなく僕を選んだのだろう?
色々と考えてしまう。少し頭を整理する。
しゅりは僕の祖父母の部屋に閉じ込められていたんだよな。それもしゅりはずっと長い年月を生きているとも言っていた。
あれ……ちょっとまて……もしかしてそれって……。
僕の中でピースが組み合わさっていく。色々と考えていた出来事が、一つのことに収束していく。そうだよ、ちょっと考えてみれば分かることだろ。しゅりは僕の祖父母の家に幽閉されていたんだぞ?それも十何年も、下手をすれば何百年も。そんな期間幽閉されて、黙っていられる存在がどれほどいるだろうか?しゅりだって──
「ぽぽぽ、あきらの考えはまちがってるよ。こんぽんてきにね」
ふいに耳元で囁くようにかけられた言葉。心臓を鷲掴みされたような感覚を覚える。思わず体が震えあがる。恐怖が僕を支配する。あぁ忘れてた。──しゅりは立派な化け物だったんだ。人を容易く殺すことが出来るほどの。そして人間の僕は体が防衛反応を起こすのだ。しゅりが少し力をこめるだけで。
「あきら、しゃべらなくていいからよくきいてね。あきらはちょっとびっくりしたんだよね。自分いがいでしゅりのことをみえるひとに会ったから。でもね、べつにしゅりはもともとあきらしかえらばなかったよ? なんでかわかる? それはね──しゅりがあきらのことすきだかね。ずっといっしょにいたいとおもったから。ただそれだけ、それいがいに理由なんていらないの」
それに、彼女はそう言って続けた。
「あきらのとこはだいすきだったよ。あそこだけだもん、しゅりをかばってくれたの。だからあきらはへんな心配しなくていいんだよ?」
そう僕に笑いかけるしゅり。いつもの可愛らしい笑顔で僕のことを見つめてくる。
だから僕も頷きをもって答える。
「うん、ごめんね。疑ったりして」
僕は自然な動作でしゅりの頭を撫でた。佳奈がこの場にいなかったなら僕はすぐにでもしゅりを抱きしめていることだろう。
「いや明くん、だから手が止まってるってさっきから言ってるでしょ」
「……あっ」
佳奈が声をかけていたのに僕は生返事していたらしく、勉強を中断して説教をくらった。その間、しゅりは僕の膝の上でずっとにこにこしながら座っていた。
☆
「ったくもー、今度あんな生返事したら怒るからねー」
あれ?さっき大気が震えるほどの怒りを僕にぶつけていたはずだけど……
「あれは説教。で、明くん。勿論、埋め合わせしてくれるんだよね? 今日一日付き合ってあげたんだから。明くんはこんな一生懸命で献身的な私を放っておいて別の女の子といちゃいちゃしてたみたいだけど」
ジト目で僕を見てくる佳奈。
「だ、だからあれはそうじゃないって」
「いまの明くん、まるで浮気現場押さえられた夫みたい」
「じゃあ僕のお嫁さんは佳奈ってこと?」
「…………いまのは忘れて」
痛い、痛いよしゅり!弁慶の泣き所ばっかり執拗に攻めないで!?
時刻は夕方6時。既に外は赤みがかった空へと変わっている頃合いだ。あの後、説教された僕はギブアップ。佳奈もそんな僕をみて呆れたのと、母親からメールが丁度きたのでお開きの運びとなった。
佳奈は玄関から出ようとしてる真っ最中だ。僕はお見送りとして玄関に。既にローファーを履いており、僕とちょっとした立ち話をしている途中。立ち話もいい感じに終わりが見えてきたところで僕は切り出した。
「やっぱり送っていこっか?心配だし」
「いいよいいよ。こっから私の家結構近いし」
でもなぁ……女の子一人にするってのは──
「それに、明くんこれ以上杏さん困らせちゃダメでしょ?」
佳奈が僕の後ろを覗き込む。それに合わせる形で僕も振り向くと、そこにはリビングの影から顔を覗かせている母さんの姿があった。なにしてるんですか母さん。
「佳奈ちゃん。夕飯食べていかない?」
「すいません。今日は母が私の好きなご飯を作っているそうなので」
「あらそうなの? じゃぁまた遊びにいらっしゃいね」
「はい!またお邪魔します!」
笑顔で母さんに答える佳奈。そしてそのまま僕に顔を近づけ、母さんに聞こえない絶妙な声量で、
「これ以上心配かけちゃダメだよ? 杏さん、すっごく不安がってたんだから」
「うん……ごめん。今日はありがと、佳奈」
「どういたしまして。それじゃ、また学校でね」
ばいばいと手を振る佳奈と母さん。玄関のノブを回し外へと出て行く佳奈を僕は少しだけ追いかけた。勿論、母さんにちょっとだけ見送ると言い残して。
「こら明くん、早く家に入らなきゃダメでしょ?」
頬を膨らませて怒る佳奈。そんな佳奈に僕は一つの質問をする。佳奈の意見を聞きたくて質問をする。
「ねぇ佳奈。もしさ、佳奈の友達が佳奈との約束を忘れてたらどうする? それも何年も待ってようやく見つけた友達が自分との約束すら記憶になかったら」
僕は今日の姫条さんとの一連の会話、出来事を思い出す。初対面だと思っていた彼女、僕だけが初対面だった。彼女はずっと、ずっと前から僕のことを知っていてずっと僕との約束を覚えていてくれていた。彼女が小さい頃からずっと覚えていた約束だ。それを僕はこともあろうに忘れていたのだ。そして今でも思い出せない。
僕の質問に佳奈はしばし考え込み
「とりあえず私なら思い出してくれるまでそのことを話し続けるかな。忘れていたんなら思い出させればいいだけのことじゃない。悲嘆することもないし悲観に暮れることもないよ」
そういって佳奈は僕に笑いかけた。まるでその友達が僕であることを見透かしているかのように。
「そうだね。頑張って思い出してみるよ」
「うん。頑張れ、男の子」
両拳を握りしめて胸の前でガッツをする佳奈。そうだ、頑張って思い出そう。まずはしゅりに聞いてみよう。しゅりは僕のことをよくわかっている。なんせ小学校に上がる前からの付き合いなんだから。きっと何かヒントが隠されているかもしれない。
悲嘆することもない、悲観に暮れることもない。僕の脳はまだ死んじゃいない。
今度こそ僕は佳奈に手を振って、それに佳奈も振り返しながら別れを告げた。