八話
またあの男がやってくる……。
「うっ……」
無音の空間の中、あたしを拘束する手錠と支柱だけが音をだし室内に木霊する。金属と金属がこすれ合う音が耳に侵入し、あたしがいまどんな立場に置かれているのかを再認識させる。
小さい頃から素行は悪かった。
他の生徒に比べて、あたしは先生の言うことも親の言いつけも聞かなかった。世間一般でいうところのガラの悪い人達と少しヤンチャして、心に湧き上がってくる感情の鬱屈を晴らした。
あたしは他人より要領がよかったのか、そこまで必死に勉強することもなくあの高校に入学することもできた。まぁ……入学してからは成績は地を這うようなものだけど。
学校でもガラの悪い人達と少しつるんだりして、でもなんか合わなくて『面白い』と言われていた高校生活が退屈なものになっていく。視界から色彩が失せ、モノクロの世界があたしを襲う。そんなときだった。彼があたしに話しかけてきてくれたのは。
学校で一番のイケメンだと噂されている五郊君に話しかけらて、柄にもなく舞い上がって声も裏返って、そんなあたしをみて彼は優しく微笑んでくれた。
とっても嬉しかった。成績も悪く素行も悪い、学校どころかクラスの居場所さえなくなりそうだった落ちこぼれの烙印を押されかけていたあたしに笑顔で話しかけてくれて。他の女子たちが群がっているときでも五郊君はあたしを見つけては一目散に駆けてくれた。他人から見たらきっと立場が逆に見えるんだろうけど、少なくともあたしにはそう感じた。
五郊君と過ごした時間はとても幸せなものだった。初めての甘い甘い蕩けるような毎日を過ごした。中学まではシンナーやたばこ、男からでるあの特有の臭いのローテーションだったから五郊君といるとやることなすこと全てが新鮮でそのたびにあたしの中に色が戻っていくのを感じた。
五郊君のおかげで教室に行くのが楽しくなった。教室内でふとした拍子に視線が合うと、五郊君は口角を釣り上げてちょっとニヒルに笑いかけてくる。
五郊君のおかげでお昼休みが楽しくなった。二人で一緒に並んで昼食をとり、余った時間で軽い談笑をする。学校で一番の幸せな時間だった。
五郊君のおかげで放課後が訪れるのが楽しくなった。二人でちょっと寄り道なんかして、喫茶店でお茶をしながら今日の授業の感想や昨日のテレビの感想を言い合うの。
それであたしの話に五郊君は笑ってくれて、その笑顔が眩しくて優しくて、それであたしはいつもいつも認識するの。
あぁ──五郊君のこと好きになってよかった、って。
五郊君の全てが好きだった。あの笑顔も、ちょっと物憂げな顔も、少し怒ったように叱る顔も、全てが好きだった。氷柱が突き刺さっていたあたしの心を雪解けのように溶かしてくれた、乾いていたあたしの想いを潤してくれた。
五郊君になら全てを捧げることができた。
それなのに──
暗い暗いの部屋の扉が音を軋ませながら開く。そこからゆっくりゆっくりあたしの元に歩いてきたその人物に声をかける。
「どうしてなの五郊君?」
あたしの目の前にいる人、五郊君はこれまでと同じ笑みであたしの問いに答える。
「どうして? 意味がよくわからないなぁ。それよりほら、今日のご飯だよ」
ぽんと足元に放り投げられた菓子パンとペットボトルの水。
「あ、ごめんごめん。その状態じゃ満足に食事すらできなかったね」
手錠で両手を拘束されているいまのあたしを見て、五郊君はあの時のような笑顔を浮かべた。それがいまのあたしには狂気に彩られた笑顔だということがよくわかった。
五郊君は両膝を折りあたしの目線に合わせ、おもむろに菓子パンの袋を開けるとあたしの口に強引に押し込む。まるで男性の異物を強引に口に捻じ込まれてきたような感触、違うのは青臭くなく甘くておいしい味が腔内に広がるかの違いだけ。気管支を塞ぐパンをなんとか咀嚼しようと努力しているうちに、今度はペットボトルを突っ込まれる。勿論、ペットボトルと口元の間からは許容外の水が零れ落ちて足元を濡らす。嘔吐くことすら許されず、ただただ無心で行為が終わるのをまつ。
やがてペットボトルは空になり、五郊君は空のペットボトルを部屋に投げ捨てた。
「おいしかった?」
「……もう家に帰してよ」
「家に帰す? なんで? キミは僕の部屋にほいほいついてきてこういったじゃないか。『家に帰れなくても構わない』と。僕はキミの意向に沿った行動をしているだけだよ。ほら、嬉しいだろ? 僕と一緒にいることができて」
決して五郊君はあたしの手を握ってくれない、触ってもくれない。部屋に置いてある調教棒を媒体にあたしに接触してくるのみ。
「こんなの……だっておかしいよ」
言葉を漏らした瞬間、体の奥底から悲しみがこみ上げ嗚咽混じりの感情が外に爆発する。
「うっ……うわぁぁ……!ひっく……ひっく……もういやだ……」
もういやだ、なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで?
「もう帰りたいよッ……!もう家に帰してよ!あの時だって、五郊君があたしの手首を押さつけて無理矢理連れてきたんでしょ!それでも構わないと思ってた!だって好きだったから!生まれて初めて、本当に人を好きになったんだもん!……好きだったのに……!……好きだったのに……」
「ねぇ五郊君……あたしのことは遊びだったの……? 教室で二人並んで宿題をしたことも、お昼休み二人でご飯食べたことも、放課後二人で喫茶店で談笑したことも……全部全部遊びだったの!?」
「え? そもそもそんなことしたっけ?」
「……え?」
五郊君は不思議そうな顔をしてあたしを見てくる。やがて何かを思い出したのか、顔を縦に数回動かし、
「あぁ、あったね。そんなことも」
そう軽い調子でいってきた。さらに五郊君の口が動く。
「でも、ほんとキミって話しの才能なかったよね。キミの振る話全部つまらなかったし。時間の無駄というものがどういうものか実感できるいい経験にはなったけど」
「で、でも!五郊君はあたしによく笑いかけてくれたよね!ほら、教室とか移動教室のときとか──」
なんであたしはこんなにも必死になっているんだろう。これが惚れた弱みっていうのかな。両手に手錠をかけられ拘束されて、食事も満足に与えられていないのに、あたしの心はいまでも五郊君に縋りつこうとしている。離れたくないと告げている。
五郊君にあたしは何を期待しているんだろう。
こんな仕打ちを受けて、現状を見せつけられて、でももしかしたら、なんてことを期待しているあたし──
「あぁ、あれ? だってキミと家畜として育てられた豚がどうしても重なっちゃってさ。なんか哀れみの笑みが零れてきたんだよね」
──に五郊君は笑ってそう返した。
五郊君の言葉が胸を抉る。
五郊君の笑顔が心を抉る。
ようやく、ようやくあたしは受け入れることができた。
五郊君にとってあたしはその程度の女なんだと。
セックスフレンドにもなれない、それ以下の女なんだと。
突き放されてようやく実感が沸いてきた。
「そっかぁ……そうだよねぇ……」
乾いた笑みしかでてこない。瞳に生気なんて宿せない。
たったいま、あたしは愛し合っていたと自分の中で思っていた人から捨てられたのだから。
ガチャンッ
ガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャン
耳にそばで何かが鳴る。
あぁうるさいなぁ。
ガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャン
耳のそばで煩わしい音が響き渡る。
いったいこれはなんの音?
「あーあ、壊れちゃったか。別に壊すつもりはないんだけどなぁ」
五郊君があたしを見ながらそう呟く。
まるでいまから出荷される豚を眺めるかのように、五郊君はあたしを見つめたまま携帯電話を取出しどこかにかける。
「あ、もしもし? うんうん。あのね、ちょっと早いけど競りかけていいよ。なんかさー話してたらいきなり壊れてね。ってことで早く来てねー」
あたしには見せない笑顔を浮かべながら五郊君は電話を切る。そのまま五郊君はあたしの目線に合わせるようにしゃがみこみ、
「キミはとってもいい娘だよ。胸は大きいし顔も可愛い。ちょっとギャルっぽいところもあの変態共には受けがいいだろうね」
五郊君はいったい何を言ってるの?
変態共?それって誰のこと?でも五郊君があたしのことを可愛いって言ってくれてとっても嬉しい。
ガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャンッガチャン
「──から──けど──れは──だからね」
え?なに?なんて言ってるのか聞こえないよ?
さっきからなんなのこの音。耳のそばで聞こえてくるしすごくうるさい。
せっかくの五郊君の声なのにうるさくて聞き取れない。
必死に五郊君の声を聞きとろうとすればするほど、音はどんどんどんどん大きくなっていく。
ふと五郊君がドアのほうに振り向き声をかける。あたしだけが聞こえていなかったみたいで、先程からコンコンとドアはノックされていたらしい。
扉の向こうから、黒服姿の男たちが六人室内に侵入してきた。一言二言五郊君と言葉を交わし、あたしを指差す。
「これが今回の? 毎度毎度いいの仕入れてきますねぇ」
「毎度毎度物好きだねぇ。女子高生のどこがいいんだが」
「女子高生だからいいんすよ。子どもでもなく大人でもない。成熟ではないけど未成熟ともいえない。そんな境界線の中にいる女子高生だからこそ、不思議な魅力が満ちているんですよ」
「ふーん……。まぁ確かにあの年代は喰うとうまいのは確かだけどさ。あ、あんまり長くなると怒られるでしょ? もっていっていいよ」
「えぇまぁ……それはそうなんですけど──こんなに発狂されてたら競りに出すどころか会場に持っていくこともできませんよ」
「……まぁ確かにね。ちょっとまってて」
五郊君があたしの元に戻ってくる。あたしの横に座り優しく優しく顔を撫でる。指先が唇に触れて、思わずその指をしゃぶり舐る。
「これからちょっとだけ辛い想いをするかもしれないけど、きっとすぐに幸せな時間がまっているからさ、ほんの少しの間だけ大人しくしておいてね」
五郊君があたしに笑いかけてくれた。あのときのように、いつものように微笑んでくれた。それだけであたしはよかった。五郊君との幸せな時間をもう一度作ることができるのなら、ちょっとの辛い想いなんて耐えられる。
「……ほんとあんた達には敬服する」
「当たり前だろ。僕達をキミたちと一緒にしてもらっちゃ困る。ほら、いまのうちに運んでおめかしして変態共の玩具にしなよ」
「ま、それもそうですね。それじゃさっさとお暇しますか。おい!引き上げるぞ!」
『へい!』
黒服の人達があたしの手錠を外し両手で抱きかかる。
黒服の人達があたしの胸やお尻を触ってくるのに、なんで五郊君は何もしてくれないの?
あたしは思わず五郊君の名前を呼びながら手を伸ばす。その手は決して五郊君を捕まえることなく、そして五郊君も手を伸ばすことなく、あの時と同様に優しい笑みであたしのことを見送ってくれた。
あ、そっか。そうだよね五郊君。後で迎えにきてくれるんだもんね。そうだよね?だってさっき言ってたから。幸せな時間が訪れるって。
あたし言うこと聞いて待っとくね。五郊君?
あたしは黒服に身を包んだ人達に抱きかかえられながら五郊君とさよならをした。
☆
彼女が去った後には異臭だけが漂っていた。僕はまだ耐えることができるけど、横に彼はいますぐにでもこの場から去りたいような顔をしている。
「ごめんねー、あまり家畜とは接触しないようにしてるんだ。ほら、こっちとしても商品であることは変わりないからあまり傷をつけるような接触は避けるべきだと思ってね」
なんて嘘をつく。本音はただ飼育が面倒なだけ。
黒服の男はそんな僕の嘘を信じたのか、はたまた逆らうことができないからただただ従っているのか、首を縦に振りながら、
「えぇよくわかっています。ただまぁ……排泄物はできることならちゃんとしてほしいところですね。競りものだということを理解していただかないと」
「あぁごめんごめん」
男の視線の先にはさっきの彼女が股からちょろちょろと放尿していた黄色の液体が水たまりをつくっていた。
「僕だってちゃんとそこはしてたよ。でもさ、さっきいきなり暴れ出して発狂して髪を振り乱しながら失禁したんだもん。ちょっと処理する時間はなかったなぁ」
「……あの暴れぶりは酷かったですね。手錠で拘束されていることすら忘れてあなたに触ろうと必死に手を伸ばしていましたよ」
「ほんと迷惑な話だよね。奇声も酷かったし」
「あれで咽喉が潰れていないか心配です。それに手首も傷がついていないか」
「まぁその時はその時だよ」
とにかく、僕の仕事はこれで終わり。後は彼らに任すとしよう。
「じゃあ僕はこれでお暇するけど、この部屋片付けてといてね」
「はい、それじゃお疲れ様でした。今度の仕入れはいつになりますかね」
「あー……ちょっとわかんないなぁ。いま個人的に凄く喰べたい娘がいてね」
「成程。それじゃ少し時間がかかるということですね」
「まぁでも二・三日くらいで済むと思うよ。種は蒔いてある。後は育った芽を動かして堕としていくだけだから」
僕はただ駒を操るだけでいい。
──ほんと人間ってバカで愚かな種族だよ。
僕は黒服の男達が用意した仕入れ補完部屋を後にした。