十一話



 家に帰った僕を待っていたのは佳奈が作ってくれた冷めた炒飯とポトフだった。

「……あのこれは?」

「昼食」

 テーブルに肘をつき、ファッション雑誌を捲りながら炒飯よりも冷めた声で佳奈は言い放つ。僕の顔なんて一度も見ようとしない。

「そ、そうなのかー。僕のために昼食を作ってくれたんだ!」

「お腹すかせてるだろうと思って時間を逆算して作ったんだけど、思いのほか明くんの帰りが遅かったから冷めたけどね」

 ……どうしよう。もうこれは佳奈の機嫌を治すのは不可能なんじゃないだろうか。

 これもう夫婦生活十五年目くらいの倦怠期とか通り越した離婚危機状態だよね。一瞬たりとも佳奈が僕を見ないって異常だよ。あの優しい佳奈が僕のことを見てくれないなんて。おかえりっていってくれないなんて。

 母親に助け舟を出してもらおうと目でアイコンタクトを交わすが、

『佳奈ちゃんを抱きしめて!佳奈ちゃんならお母さん許してあげるから!』

 などと意味のわからない視線を返すだけである。

 冷めた炒飯をスプーンですくい頬張る。フライパンで炒める前に卵かけごはんの状態にしたのか、米同士でくっつかなくてパラパラした仕上がりになっている。それに薄味にしているので冷めたポトフによく合ってもう最高である。

「うん!めちゃくちゃおいしいよ佳奈!」

「そう」

「いやほんと佳奈って料理の天才だね!」

「出来立てはもっとおいしかったのになぁー」

「……」

 再びの沈黙。僕と佳奈の空間には紙と紙とかが擦れ合う音だけが響いていた。

「あの……佳奈さん? もしかして僕のこと怒ってる?」

「べつに」

「いやでもなんか怒ってる感じだし」

 ぱたんと読んでいた雑誌を閉ざした佳奈は笑顔を浮かべながら僕にこういった。

「帰りが遅すぎるから携帯に電話しても出ないし、学校一のアイドルである姫条さんとナニしてるのかなーって気になってただけだから。ほんとそれだけだから気にしないで。明くんのために頑張って作った炒飯もポトフも冷めたけどそんなこと気にしなくていいよ」

 激怒していた。

 いやこれは激怒じゃないな。佳奈が激怒したらこんなもんじゃない。もっと恐ろしい。

 ということは──

「もしかして嫉妬……?」

 自分で言っといてなんだけどこれはなんというかありえないな。佳奈が僕に嫉妬なんてしてたらそれこそ世界の終りだよ。

「……べ、べつに嫉妬してるわけじゃないよ。ただなんというか……あんまり面白くないなぁって思っただけで……。私が明くんと姫条さんがちょっと放課後の教室で喋ったくらいで嫉妬するような心の狭い女なんて思われたくないし……」

 僕の世界の終りかもしれない。

 佳奈が小動物みたいな反応をするなんて……。

 なんともいえない空気が僕と佳奈を包み込む中、ずっと待機していた母さんがしゃりしゃりとでしゃばってきた。

「佳奈ちゃんはね、明が他の女の子にばっか構ってるから拗ねてるのよ!さっきね二人でお料理してるときに『明君がお友達を作ってくれるのは嬉しいのですが、ちょっとだけ寂しいです』って言ってたの!」

「あ、杏さん!?それはバラさなくても──」

「何を隠そう、佳奈ちゃんにこういった態度を取るといいわよと助言したのはお母さんなんだから!」

「杏さん作戦が全部バレてますよ!?折角の私の演技が台無しじゃないですか!?」

 母さんの爆弾発言に佳奈が慌てて訂正に入ったかと思いきや、怒りで顔を真っ赤にさせて僕を睨みつけながら警告した。

「明くん、さっきのは全部演技だし杏さんが言った言葉は全部でたらめだからね。真に受けて私に変なことしたら怒るからね!」

「し、しないよ」

 いまの佳奈は怖すぎてそんな気も起こらない。

 ……でもちょっとだけ残念だったかも。

    ☆

 一匹の蛇が蠢く

 世界には綺麗な水晶の球がところせましと宙に浮いている

 蛇はその一つをじっと見つめる

 水晶体の中には小さな女の子と男の子が一緒に遊んでいる姿が映し出されていた

 少女の手を引く少年に、こけそうになりながらも楽しそうについていく少女

 少女はやがて転び芝生の上に顔を打ちつける

 数秒して少女はわんわんと泣きだした

 可愛らしい顔は涙でぐしゃぐしゃになり、この日のために用意した白色のワンピースには草の他にも土で汚されていた

 少年はおろおろとしながら必死に謝る

 ごめんなさい、そう必死に謝る

 少女の顔が俯く

 完全にふさぎ込んでしまったようだ

 先程の甘い空気はどこかに消えてしまっていた

 聞こえてくるのは少女の泣き声ばかり

 そんな少女をみて少年は少女と同じようにしゃがみ込み、口元を動かした

 その言葉を聞いて少女の泣き声は止み、顔を上げた少女は満面の笑みを浮かべていた

 そこに涙の痕跡など存在しなかった

 少年はほっとし、少女は嬉しそうに笑みを浮かべる

 水晶体にはそんな光景が映し出されていた

 この水晶体だけではない

 蛇が見渡す限りの水晶体、そのすべてに色々な少女の思い出が映し出されていた

 そして蛇は目の前にある水晶体を飲み込んだ

        ☆

「佳奈、今週の日曜日街まで遠出して遊園地に行かない?」

「行かない」

「フリでもいいからもう少し考える仕草をしてよ」

 昨日までのテストは終わり今日から通常授業が始まる。ようやく僕も二年生としての自覚を持ちつつある中で、今日は佳奈を思い切って遊びに誘ってみたわけなんだけど……結果はご覧のありさまだ。

 佳奈は肘をつきながら、昨日もずっと読んでいたファッション雑誌を広げている。ほんと女の子ってファッションにこだわるんだなぁ。

「男の子だってファッションには気を付けたほうがいいよ。明くんの場合、ファッションで補強しないとモテないんだし」

 失礼な、僕はこれでもモテモテなんだぞ(しゅり限定)

「僕には正直ファッションとかわかんないなぁ。制服のほうが好きだし」

「まぁ確かに制服って可愛いし、女子高生特有だから大好きって人もいるみたいだけどね」

「大人の人が制服着るのもいいよね」

「うわぁ……明くんひくわぁ……」

 目が変質者を見る目だ。

「い、いや違うって!?僕は純粋な女子高生のほうが好きだから!そういった大人が着るようないかがわしいのはダメだよね!うん!」

「明くんってただの女子高生好きなだけでしょ?」

「いやべつに──」

「私の制服姿に興奮とか覚えるの?」

「めちゃくちゃ」

「さよなら明くん。もう近寄らないでね」

「う、嘘だって佳奈!?冗談だよ冗談!」

 席を立とうとする佳奈を体全体で引き留めて弁解する。つい本音が零れてしまった。

「べつに冗談じゃなくてもいいのに……」

 佳奈は小声で何かいいながら席に着く。聞き取れなかったから聞き返したいけど……ここで聞き返したらさらなる悲劇がまっていそうだから止めておこう。

「それより明くん。週末暇なら遊園地じゃなくてショッピングにいこ。また明くんの私服選んであげる」

「か、佳奈が選んでくれるの?」

「私以外に誰がいるのよ。というか毎回明くんの私服選んでるの私なんだけど」

「僕が選ぶものは全部ダサイって一蹴されるんだからしょうがないじゃん」

「明くんのファッションセンスが常軌を逸しているからでしょ」

「そうなのかなぁ……」

「それに気づかない時点でだめだめさんなの。日曜10時に迎えに行くからちゃんと起きててね」

「ん。わかった」

 それにしてもショッピングかぁ……。物凄く楽しみだな。

「あきら!しゅりアイスクリームたべたい!あとケーキも!」

 はいはい、大丈夫だよしゅり。ちゃんとしゅりが行きたい所にも行くからね。

 ふと僕は教室の扉を見つめる。視線を横にズラすと佳奈も僕と同じように教室の入り口に目を向けていた。佳奈と僕の視線が合う。

「姫条さん大丈夫かな……」

「どうだろう……。佳奈はあのときどうだった? やっぱり翌日は学校に来たくなかった?」

「私? 私は特に何も思わなかったよ。普通に学校に登校して、明くんとお喋りでもしようかなって考えてたから」

「そっか……」

「姫条さんも意外とそんなこと考えながら登校してきてるんじゃないかな? ほら、女の子って何かと時間がかかるから」

「ん、そうだね。きっとそうだよ」

 きっと姫条さんのことだから、学校のアイドルであり天使である姫条さんは朝のお風呂とかしてて、それでいて長い髪のせいで乾かすのに時間がかかっているだけなんだ。だから──

 ガラリと教室の入り口が開く。

「ふぅ……なんとか間に合いました」

 ほら、僕の思った通りだ。

 姫条さんは僕達を見つめると笑顔で挨拶をする。

「おはようございます、明君に片桐さん」

「「おはよう姫条さん」」

 やっぱり姫条さんって可愛いなぁ。それにとてもいい匂いがする。これは柑橘系の香りかな?しゅりよりももう少しきつめの柑橘系の香りがする。それでもずっと嗅いでたいほどの香りが僕の鼻腔をくすぐってくる。

 か、佳奈さん……?さっきから僕の足を踏んでるんだけど……?

 視線を送る僕に佳奈は舌を出すことで応える。

「姫条さん毎日毎日大変そうだけど大丈夫なの? その……アレ」

 佳奈が指さす先には俗にいうファンクラブが列をなして姫条さんを見守っていた。

「は、はい……。一応わたしのことを思っての行動みたいですし」

 最近姫条さんの苦笑いをよく見かけるようになった。遠くからだと絶対に見れない表情だよね。それがいいのかどうかは分からないけど。

「あ、明君その……今日ってお昼ご飯はご一緒してもいいんですよね?」

 教室中の視線を僕が独り占めしたのは言うまでもない。

「あ、迷惑でないのならでいいですから……」

「えっと……僕はなんの問題もないんだけど。それに昨日お昼ご飯の約束もしてたし。……よかった、姫条さんのその場しのぎの会話じゃなかったんだあれって……」

「私もべつにいいよ。女子高生と女子高生の制服が大好きな変態さんとの昼食より、姫条さんみたいな可愛くて優しい人とお昼を共にしたいしね」

「まって佳奈、それじゃ僕が女子高生好きで制服好きの変態みたいじゃないか」

「え!?いまそういったんだけど!?」

 どうやら佳奈は僕のことを誤解している。

「いいかい佳奈? 僕は制服も好きだけどそれ以外にだって並々ならぬ愛情を──」

「姫条さん折角だから連絡先交換しようよ。あと私のことは佳奈でいいからね?」

「あれ? 僕の話スルー?」

「あ、はい。それじゃわたしのことも茜で呼んでください!わたし、下の名前で呼んでくれる人って家族以外にいなくって」

「僕の──」

「明くん黙って。それじゃよろしくね茜さん」

「はい!佳奈さん!」

 携帯と携帯を合わせて赤外線通信で連絡先を交換しながら二人は笑い合う。

「明君もどうですか?連絡先の交換」

「え?いいの?」

「はい!」

「それじゃ交換させてもらおうかな」

 僕も二人同様携帯を取出し赤外線通信で姫条さんと連絡先を交換する。

「よかったね明くん。私以外のお友達の連絡先がようやく登録できて」

「うっ……僕が本気になれば友達を100人作ることなんて訳ないもんね!」

 と強がったところで佳奈にはなんの効果もないわけで、僕は頭を優しく撫でられるだけだった。

 まるで僕のことなどお見通しかのごとく。

 予鈴の鐘が鳴る。それと同時に担任が檀上に上がり、僕達は着席することを余儀なくされた。

         ☆

 わたしの中で一番大切な記憶が見つからない。

 心の机の引き出しに大切にしまっておいたはずの彼との思い出がいつの間にか消えてなくなっていた。

 文字通り、泡となって消えていた。

 手当たり次第に引き出しをあける。

 違う場所に移し替えたのかもしれないから。

 心の中を全て探す。吐き出す。

 それでも思い出は見つからない。

 わたしは自分がどんな思い出を探しているのかもわからないまま、記憶の中の引き出しをずっと開け続けるのであった。




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